中国伝奇映画 『聊斎志異』の世界 中国には伝奇小説という独特の分野があります。伝記小説ではなく伝奇小説です。生まれ変わり、そして幽霊、妖怪などが出てきますから、怪奇小説、お伽噺、ファンタジーです。中国では唐や宋の時代からの長い歴史があり、優れた作品も多い。最近の中国では様々な形で映像化され、また映像化するのにピッタリの分野です。 日本では伝奇小説の分野が根付いていないので、人気がないのが残念です。ぜひ皆さんも観て、単なるオバケ映画、幽霊映画ではない、その独特の世界を味わってください。妖怪や怪奇は素材にすぎず、美しい恋愛や様々な人生を描きながら、時には人生の虚無感さえも漂っていて奥深い。 『牡丹灯籠』は恋愛小説 中国の伝奇小説というタイトルなのに、話は日本の怪談話である『牡丹灯籠』から始まります。 『牡丹灯籠』は『四谷怪談』『皿屋敷』『累ヶ淵』などと並んで日本の怪談話として有名です。不幸な死に方をしたお露という幽霊と若者との悲恋を描いた作品で、江戸時代に作られた後、明治時代の落語家によって完成した物語です。 良く見ると、いくつかの点で他の有名な幽霊話とは違う点があります。一つは、幽霊になったお露が、カランコロンと下駄の音を響かせながら、愛する新三郞の元を訪れるというシーンです。日本の幽霊なのに足がある。 私が最初に映画で観た『牡丹灯籠』は1968年に大映で製作されたもので(写真上下)、テレビで観たように記憶しています。幽霊は恐いが、でも、後味が他の怪奇映画とはまったく違いました。他の幽霊映画はどれも恐いだけであまり後味は良くなかった。 この後味の違いはテーマの違いです。幽霊映画としては同じだが、『四谷怪談』『皿屋敷』『累ヶ淵』がひたすら恨み辛みを抱いた幽霊が復讐を果たすという内容です。悪業を為した者を懲らしめるという勧善懲悪的な意味があるから、抑圧された庶民の溜飲を下げることになったのでしょう。しかし、怨念という心がどうも私の感性に合わない。 一方、『牡丹灯籠』のテーマは怨念ではなく愛です。二人の決して結ばれることのない悲しい恋愛の物語であり、恐いよりも涙が出ます。『牡丹灯籠』は恋愛小説だから、他の幽霊映画とは違った印象を持ったのです。 日本の幽霊なのに足があり、恨み辛みではなく、恐怖よりも恋愛がテーマであるなど、他の幽霊話とはひと味違うのは、『牡丹灯籠』の原作は日本ではなく中国だからです。 原作は、明代に作られた『剪灯新話』(1378年頃に成立)にある『牡丹燈記』です。つまり、お露と新三郎は実は中国人なのです。 『牡丹灯籠』と他の幽霊物語の質の違いは今日の映画でも同様で、日本のホラー映画は怖さを競うことに重点が置かれています・・・と言っても、私は日本のホラー映画はほとんど観ていないので言う資格がないのだが、広告の映像を観る限り、ひたすら不気味なだけで、『四谷怪談』などから一歩も出ていないのがわかります。勧善懲悪という大義名分のあった江戸時代と違い、観客の恐怖感を煽るだけの映画は私の興味からは外れますし、お勧めするつもりはありません。 一方、『牡丹灯籠』の原産地である中国は、伝奇小説という独自の文化を千年以上も保ち続け、それが今日、映画の一つの分野をなしています。 『牡丹灯籠』は中国の伝奇小説の性格を色濃く残しているのに一つだけ違うのは、1968年の映画では、二人は死んで結ばれた点です。死んだ後とは言え、二人の恋はハッピーエンドです。しかし、中国の原作も映画も多くはそれはありません。 中国の伝奇映画の多くは妖怪と人間の恋物語で、これらの作品の優れた点は、かなわぬ恋だという点です。一時的にうまく行きそうに見えても、紆余曲折を経て、結局、彼らの恋愛は成就しない。これは中国の伝奇小説に流れる一つの人生観のようなもので、どこか虚無感が漂っている。日本人に受けないのもこのあたりが理由かもしれません。逆に私はこれが好きです。なぜなら、そのほうが現実に近いからです。 伝奇小説の原典『聊斎志異』 中国の伝奇小説は唐の時代から作られ、その中で今日の中国の伝奇映画で原作として良く取り上げられるのが『聊斎志異』です。『聊斎志異』は著者の蒲松齢(1640 - 1715年)が若い頃から人々から聞いた話を書きためた445篇の伝奇小説で、亡くなって半世紀も後に出版されたといいます。 日本の『遠野物語』(柳田国男)と似ています。柳田は遠野出身の男性から、地元に伝わる様々な妖怪や幽霊物語を聞いて書き留めたと言います。 私が最初に『聊斎志異』を読んだのは学生時代で、角川文庫から出た本でした(写真下)。
一方、『牡丹灯籠』の原典である『剪灯新話』は本家の中国では断片しかなくなり、1917年に日本から逆輸入されたほどです。しかし、日本は中国から様々な文化を輸入して発展させたのに、『牡丹灯籠』は例外で、伝奇小説の分野だけは発展しませんでした。 『聊斎志異』を単なるオバケ話とみなしているからではないでしょうか。主人公の男性はたいてい平凡な男で、一方、女性たちは狐や蛇の妖怪ですから、美人でしかも様々な力を持っています。この設定が面白い。また、著者が意図したものではないだろうが、人生に対する虚無感が漂う作品も多い。この方面での秀作に「邯鄲の枕」(一炊の夢)が有名で、同じような話が『聊斎志異』の巻五に『続黄梁』という題名で出てきます。こういう人生観が『聊斎志異』の物語の中にも時々出てきて、物語の質を高くしており、単なるオバケ物語に終わっていません。 写真上 2010年に中国で製作された『聊斎志異』 『聊斎志異』を映像化した物をbaidu(百科)で探すと次のようにあります。これはたぶん一部分でしょう。残念ながら、大半が日本では紹介されていません。2007年の『聊斋奇女子』は聊斎志異とは関係ない映画かもしれませんが、私の好きな女優が出ているので載せました(笑)。
ここには載せていませんが、私が観た香港映画に『山荘奇譚』があります。1980年代、まだVHSのビデオテープだった時代、レンタルビデオ店から借りて観て、とても感激しました。中国の典型的な伝奇小説の映画でした。後に、NHK-BSで放送されたことがあると聞きました。題名が私の記憶違いなのか、いくらネットで探しても見つかません。同じ題名の小説が出ているが、私の観た映画とは別物です。 『聊斎志異』はたくさんの小説の集合体で、たとえば2011年公開の映画『画壁』はその一つです。そこで、映画に取り上げられた小説ごとに見てみましょう。まずは一番有名な話からです。 倩女幽魂 『倩女幽魂』は「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」と言ったほうが日本人にはわかりやすいでしょう。原典の『聊斎志異』の巻二にある『聶小倩』を元にしています。聶小倩(聂小倩)は女妖怪の名前です。 映像化されたのを中国のWikipediaなどを参照にすると次のようになっています。数の多さを見れば、中国社会ではこれがとても好まれているのがわかります。
映画『チャイニーズ・ゴースト・ストーリー』 「チャイニーズ・ゴースト・ストーリー」は1987年に香港と台湾の合作で作られた映画です。これが大ヒットして有名ですが、最初に映画化されたのは1960年で日本語版もあります(写真下)。しかし、1987年の作品に比べると見劣りします。
1960年公開の『倩女幽魂』 過去の作品が明瞭に見劣りするほど、1987年の『倩女幽魂』は優れていたというべきでしょう。人間と幽霊という結ばれるはずのない二人の恋愛という、最初から観客の涙を絞り取ってやろうという意図がみえみえの作品ですから、私などその作戦に見事にひっかかり、涙と鼻水の洪水になりました(笑)。 1987年公開の『倩女幽魂』 この作品は主役の二人に恵まれました。特に、主人公の宁采臣(ニン・ツォイサン)を演じたレスリー・チャン(张国荣)ははまり役です。借金を取り立てる仕事におおよそ向かない気弱そうな雰囲気がぴったりです。原典でも主人公は真面目な堅物です。この後も、様々な俳優が『聊斎志異』の映画の主人公を演じているが、レスリー・チャンは飛び抜けています。『聊斎志異』ではあまり個性の強い男は少ないのと、どうしても妖怪役の美人女優が光り、男優は陰が薄いし、また、そうあるべきです。しかし、この映画でのレスリー・チャンは対等にその存在感を示しています。残念ながら、彼は2003年に自殺しています。また、事情はよくわかりませんが、三部作中二作までしか出ていません。 妖怪の聂小倩役のジョイ・ウォン(王祖贤)もはまり役でした。猫を連想させるような顔立ちが妖怪役にぴったりだと言ったら怒られそうですが、美しさと悲しさを良く演じています。 ジョイ・ウォンはシリーズの三作まで主役をして、日本でも人気を得て、日本のコマーシャルにも登場しました。 1993年には『青蛇(Green snake)』に美しい蛇の妖怪役で出ています。日本語版はVHSだけなのが残念です。その宣伝版がYoutubeの「Beautiful Chinese Music【26】Traditional【A Maiden's Love】」にあり、ジョイ・ウォンの妖しげな美しさが際立っています。Youtubeで観ると、絵作りが丁寧で、映像がとても美しい(写真下)。二十年たった今日でも十分に通用する映像です。 ところが、この映像の題字には「白蛇」とあります。主役のジョイ・ウォンは白蛇役だし、白蛇伝は白蛇と青蛇の妖怪の話だからどちらでも良いにしても、どうなっているのでしょう。 画皮 「画皮(畫皮)」は『聊斎志異』の原典では巻一にある小説です。元々の話は、主人公は妻がいながら、色っぽい女(妖怪)に迷い、他人の警告も無視したため、妖怪から心臓を取られてしまう内容です。妖怪が人間の皮をかぶっていたことから、画皮という題名がついています。画皮は機械翻訳すると「化けの皮」という意味です。
1968年の香港映画『画皮』は日本語版がないので観たことがありませんが、解説を読むと比較的原作に近い内容ではないかと思われます(写真下)。 原文は2千字しかないそうで、その分、映画化する時は自由な解釈や話を膨らませることができます。2008年以降の映画でも狐の妖怪が人間の皮をかぶって美女に化け、人間の心臓を取って食うという設定はそのまま使われています。 映画『画皮 あやかしの恋』 この映画は2008年に作られたのだから、映画としては前作から40年ぶりということになります。 ここから先の映画もドラマも『画皮』の主人公は小唯(シャオウェイ)という狐の妖怪です。狐の妖怪が妻のある人間の男性に惚れて、美しい女性に化けて、彼の愛を勝ち得ようとする物語です。下のポスターの真ん中にいるのが狐妖(妖狐)です。『聊斎志異』にはしばしば妖狐が登場します。 妖狐役の周迅(ジュウ・シュン)と妻役の趙薇(ヴィッキー・チャオ、写真下)の二人は、中国の四大女優(四大名旦)と言われるほどの人たちだけあって、存在感が強烈で画面を引き締めています。 日本と同様に、中国でも狐は人を騙すとされています。中国の狐は真面目に千年も修行して美しい女に化けて騙すそうですから、騙され甲斐もある(笑)。人を騙す狐の伝承は日本のオリジナルかと思っていましたが、この後の蛇も含めて、どうやら中国から伝わってきたようです。九尾の狐も中国原産だそうで、私はてっきり日本のオリジナルだと思っていました。 写真上 『画皮』の砂漠のシーンと(上段)、『画皮Ⅱ』のチベットの湖でのシーン(下段)。 この映画に限らず、中国映画のよさは自然が美しいことです。なにせあれだけの国土なので、コンピューターグラフィックスを用いなくても、映画のロケには困らない。砂漠やチベット高原などの素晴らしい光景が広がっています(写真上)。テレビ番組のように製作費が少ない場合でも、どこかの観光地ではないかと思われるような風光明媚な場所が良く使われています。日本のように、観光地には土産物屋を作り、どこもここも電柱を建ててしまうと、昔のドラマを屋外で撮るのは難しい。 映画『妖魔伝 -レザレクション-』 映画『画皮』の続編です。
原題は『畫皮Ⅱ』だが、日本版では『妖魔伝 -レザレクション-』という題名がついているので、わかりにくい。明らかに続編なのだから、画皮という名称はそのまま残すべきです。
話は、妖狐の小唯が氷地獄から脱出して、黄金のマスクをつけた公主(王女)と出会うところから始まります。「黄金のマスクで顔の傷を隠す公主」という設定は、後のテレビ版の『画皮2』(写真下右)でも使われます。 主役の二人の女優は前作の『画皮』と同じです。前回は妻役だった趙薇(ヴィッキー・チャオ)は今回は仮面をつけた公主の役です(写真上左)。 圧巻は前回と同じ妖狐・小唯役の周迅(ジュウ・シュン)です(写真下)。不気味さは前作よりもさらにパワーアップして(笑)、日本人の持つ女狐のイメージにぴったりで、すごい女優だとわかります。 この映画も大ヒットしたそうです。ただ、個人的な好みでいうと、どうも暗くて好きになれない映画です。伝奇小説は不気味で恐ろしいだけではおもしろくない。不気味さの中に美しさや愛があるから感動するのです。その「調味料」の微妙な調合を間違えると、伝奇映画ではなく妖怪映画になってしまいます。 テレビドラマ『画皮 千年の恋』 映画が大ヒットしたのを受けて作られたのがこのテレビ放送用の『画皮』です。日本では『画皮 千年の恋』という副題が付いています。映画『画皮』での妖狐・小唯の不気味さは薄れています。やはりあれは周迅(ジュウ・シュン)の演技力なのでしょう(笑)。 話は映画と同様に、王生(ワンシェン)が妖怪の狐(栩栩、小唯)を助けたことから、やがて妻となる佩蓉(ペイロン)との三角関係というか、恒例の多角形の男女関係がもつれあいながら、誰が見てもうまくいかない方向に展開していきます。 映画と違い、連続ドラマで話を持たせるために製作者たちがあれやこれやと、うまくいかないように話をひねりまわしており、期待を裏切るどんな展開をするつもりなのか楽しく観ました。予想もしなかった展開にハラハラドキドキさせられることもあるが、「カット!」と叫びたくなるような話もあります。 男優では勇哥(パン・ヨン)を演じた李宗翰(リー・ゾンハン)がなかなか渋くて良い演技をしています(写真下)。兄妹のように育った佩蓉(ペイロン)に惚れているのだが、彼女の愛は王生(ワン・シェン)に向いていて、しかも王生は親友でもある。愛情と友情の葛藤を巧みに演じて、主役の男優を食っています。それだけに彼が最後に他の女性と結ばれるというオチは最悪です。他の全員が幸せを得ても、彼だけは心の傷と失意を抱えたまま、後ろ姿で去っていくべきでした。 この後の『画皮2』を含めて、私個人は映画よりもこのテレビ・シリーズのほうが好きです。映画はどうしても短時間に観客を楽しませようと、派手なアクションやコンピューター・グラフィクを用いた場面で惹きつけようとするから、肝心な人間ドラマの部分に時間がかけられず、薄れてしまいがちです。そういう点、テレビでは時間が十分あるのと、予算が少ないから(笑)、人間ドラマに重点を置くことになります。 おもしろいのは妖狐の小唯(写真下左)と妻の佩蓉(写真下右)は襟元をはだけて着ていることです。女性たちは日本の和服のような服装です。和服は呉服というくらいで、中国から輸入されたものだから、似ているのは当然なのでしょう。他の役柄の人たちは襟元をきちんとしているから、背景となっている時代ではこのような着方があったのか、よくわかりません。
女性たちの服の裾が長く、床を雑巾がけしているようなものです。しかも、そのまま屋外を歩き、山に登り、旅行までする。本当に昔の中国では、貴族やお金持ちの女性たちは服で地面の雑巾がけをしていたのでしょうか。 テレビドラマ『画皮1』(左上)とテレビドラマ『白蛇後伝』(右上) 服装でもう一つ興味深いのが、結婚式の新郎新婦です。写真上のように新郎新婦ともに赤い服を着る。日本の場合、両者ともに白か、新郎が色のついたスーツや紋付を着る程度です。ネットを見ると、現代でも中国では結婚式では赤を用いるようです。 (http://brideal.jp/blog/archives/4993より転載) テレビドラマ『画皮2 真実の愛』 原題は『画皮之真爱无悔(画皮之真愛無悔)』です。このシリーズは『画皮 千年の恋』の続編として作られているので、映画『妖魔伝』のテレビ版です。 写真上左:中国版(baidu百科より転載 http://baike.baidu.com/view/6750458.htm) 写真上右 :日本語版 物語は前作の主人公の王生が死んでから二百年ほど後で、妖狐の小唯(シャオウェイ)は氷地獄から脱出したものの、彼への愛が断ち切れぬまま、この世界を彷徨っているところから始まります。 今回のヒロインは王生の子孫である王英で、皇帝の王女(公主)と小唯が彼への愛を貫くという、全体で42話からなっています。今回もけっして結ばれることのない多角形の男女の愛憎悲劇に、私は涙と鼻水を流しながら観ました(笑)。 (baiduより転載) ヒロインの妖狐役の白冰(バイ・ビン)の演技は素晴らしい(写真下)。裏のありそうな怪しげな妖狐ぶりと、それとはまったく逆の純粋に王英を慕う娘役を見事に使い分けています。映像的に不気味な場面を作るのは簡単だが、それを減らし、妖狐の怪しい雰囲気は彼女の演技力で表現しています。そのほうが製作費が安く済むという予算的な効果もあるのでしょう(笑)。 (baiduより転載) 前作のテレビ版『画皮』の小唯も、テレビ放送なので妖狐の不気味さはかなり少なくなり、この『画皮2』ではさらに薄まり、むしろ、一途さが強調され、観客が彼女に同情するようにできています。「おいおい、いくら妖狐でもそこまでひどい目に遭わせるなよ」と言いたくなるような場面もあります。 映画とテレビの四作に三人の女優が小唯を演じましたが、個人的な好みでは白冰に一票投じます。 ドラマでは王英は小唯が妖怪だと知って激しく拒絶します。でも、彼女のような妖怪に惚れられ、尽くされるなら、男冥利に尽きる(笑)。この際、妖怪だろうが宇宙人だろうが、気にすることはありません。このドラマの中のセリフにもあったが、妖怪も顔負けの悪辣な人間なんていくらでもいるじゃありませんか。 (baiduより転載) 良い相手なら狐だろうが蛇だろうがどうでも良いではないか、という感想は、『聊斎志異』を読んだ人たちが良く持つ気持ちで、「聊斎癖」というそうです。私もその癖が付きました。これはとても重要なことで、人間は狐どころか、人種が違うというだけでいがみ合う。また、日本では今でも犬と猫が年間17万頭も殺処分されている。聊斎癖をつければ、どちらもためらうことです。 もっとも聊斎癖とは、聊斎志異があまりにおもしろいので寝食を忘れるほどだ、というのが元々の意味のようです(『聊斎志異 第一巻』角川文庫、昭和45年、3頁)。 妖狐の氏族 日本にも古くから様々な妖怪物語があります。日本の妖怪は異形のオバケであり、闇の世界の存在です。しかし、中国の妖怪は人間の姿をして普通に紛れ込んでいます。自然の様々な物に霊魂があるという世界観はアジア全般に見られ、中国ではさらに一歩進んで、それらが妖怪となって積極的に人間社会に関わっていく。 これは歴史の違いでしょう。前漢(西汉、紀元前206 - 8年)に作られた思想書『淮南子』によれば、夏(紀元前2070~1600年頃)の始祖である禹は熊の化身、妻の女嬌は塗山の妖狐の氏族だという。まさか熊と狐が結婚したなんてありえないから、彼らの出身の民族が熊や狐を自然精霊としてあがめていたのでしょう。チベット族は猿と妖怪の女(鬼女、羅刹)の子孫だという伝承があります。 身近な動物を崇拝する民族が自分たちを狐族だと自称していて、これがやがて独り歩きして、周囲の民族は習俗の違う彼らを狐の妖怪だと揶揄していたのかもしれません。つまり、妖狐と呼ばれる人たちは実在したかもしれない。その理解しがたい習俗が心臓を食べることや皮を被ることではなかったか。 話の中に何度も出てくるのが、妖怪が生き延びるために人間の心臓を食べることです。また、小唯がそうであるように、人間の姿を取るために、人間の生皮を剥いで、それをかぶっていることになっています。 心臓を食べるとか、生皮を被るなど、中国の一部では昔このような習俗があったかもしれない。心臓は生命の象徴だから、これを食べれば力が得られるとか、美貌を保つために若い女の皮を皮膚に貼り付けるなど、実際に奇習があったのではないか。つまり物語で妖怪とされる奇習を持つ民族が実在したのかもしれません。 顔面相似 二人の美女にモテモテのヒロイン役の劉愷威(ハウィック・ラウ)はキリッとしたハンサムです(写真下)。真面目で実直な武人という役柄に良く合っている。ところが、ネットで調べてみると、彼のハンサムはどうやらリフォームらしく、解説付きで使用前、使用後が示されていました。 (baiduより転載) 写真下左の劉愷威は、写真下右の日本のタレントとちょっと似ているような気がします。 『画皮Ⅱ』の出演者たちは、彼の他にも日本のタレントと良く似た人たちがいます。私の主観で比較するなら、写真下のようになります。出演者の配役は、上から皇帝、公主(皇女)、除妖師です。人種的に近いのだから不思議ではなく、兄弟とか親戚と言われても納得しそうです。ただし、あくまでも私個人の印象であり、ご本人やファンの皆様には失礼を多々お詫びいたします(对不起)。 白蛇伝 白蛇伝は中国では古くから知られる民話で、『聊斎志異』の物語ではありません。白蛇の白素貞(白娘娘)と人間の若者が恋をして、妖怪を敵視する僧侶が白蛇を塔に閉じ込めてしまうという話です。 白蛇伝の一場面 (baiduより転載) 舞台は風光明媚な浙江省杭州市にある西湖のほとり、時代設定はたぶん宋(960年~)ではないかと言われています。白素貞は僧侶によって雷峰塔に閉じ込められるが、この塔が作られたのは北宋の975年ですから、この後ということになります。ただし北宋時代の『太平広記(太平廣記)』(977-978年)に出てくる白蛇は若者を殺してしまう悪役で、これが清の『雷峰塔奇伝』(1806年頃)『白蛇全伝』(1920年代)になると、今日のように恋愛小説になっているそうです。 写真上 西湖と雷峰塔(Wikipediaより転載) 物語では白素貞が雷峰塔に閉じ込められた後、義理の妹である青蛇の小青(シャオチン)が峨眉山に戻って修行を積み、雷峰塔を燃やして白素貞を助け出しましたから、今は雷峰塔に白蛇はいませんし、雷峰塔も再建されていますから、観光には問題ありません(笑)。蛇を嫌う人は多いが、助けてあげると白素貞のように美人になって恩返しに来るかもしれないという欲にかられてもいいから、毒蛇でもむやみに危害を加えるのはやめましょう。 白素貞(右)と小青(左) (baiduより転載) 古くから知られる民話だけあって、下の一覧表のように、映像化された物語もたくさんあります。ただし、日本の『白蛇抄』のように内容も主旨も原型をとどめないほどの作品は入れていません。
年表を見ればわかるように、白蛇伝の映画化は日本が先行しています。1956年には山口淑子主演の『白夫人の妖恋』が公開されています。『白夫人の妖恋』で洪水が起きる特撮シーンは、後の怪獣映画の巨匠、円谷栄一氏が担当しています。 上の写真は日本と香港のポスターです。題名以外にも大きな違いがいくつかあります。香港では主演の山口淑子の顔を大写しにして、しかも名前が李香蘭になっています。戦後、日本では山口淑子だったが、彼女は香港などで李香蘭の名前で女優として復活していました。この映画も東宝と香港のショウ・ブラザーズ社の共同制作です。 日本語版では、俳優の欄に池部良が最初にありますが、香港版では李香蘭や八千草薫が先に載っています。李香蘭は中国で有名だったからわかるが、八千草薫が池部良よりも先にあるのは面白いと思いませんか。白蛇伝の主役は白蛇と青蛇です。 写真下は日本初の「総天然色」の長編アニメーション映画『白蛇伝』です。『白夫人の妖恋』と同じテーマであることを見てもわかるように、香港の映画会社からアニメ制作の提案があったようです。 1958年に公開された東映の『白蛇伝』(toei animationより) 中国は著作権の意識が薄いせいか、過去の映画やテレビ番組がYoutubeに載っていることが多いのに対して、日本の映像はほとんどありません。著作権は大切なことだが、『白夫人の妖恋』のように半世紀以上もたっているのに、販売されていないために観られないという問題が出てきます。著作権などが壁になり、過去の映像財産が埋もれたままになっているのは困ったことです。 1962年の香港映画『白蛇伝』 (http://www.paipaitxt.com/r5699259u5966921より転載) アメリカでは著作権をさらに延長しようと著作権を持つ会社などが国に働きかけています。中国のように著作権を無視したコピー商品が出回るのはけしからんが、しかし、あまりに著作権だけを重視すると、かえって自分の首を絞めることになりませんか。慈善や公共の利益のために使われている著作権を延長するなら賛成だが、商用はほどほどにすべきでしょう。ディズニー映画も、白雪姫、シンデレラ、ピーターパンに著作権料を払って作ったという話は聞いたことがありません。自分は払っていないのに、他人にはいつまでも払えというのはおかしい。 2009年に上演された京劇の『白蛇伝』 (http://www.0737weal.com/d/dxlnwnnd/) 日本は映像も書籍も著しく電子化が遅れています。電子化が遅れるとは、情報がそこに留まってしまい、活用できないことを意味します。知識や文化は最終的には人類の共有の財産として、その上に新しくさらに作り上げることで、それぞれの分野が発展するだけでなく、経済的な効果も出てきます。そのためには電子化して、安く早く誰でもこれらの情報を手に入れられるようにすることです。 Youtubeが電子化の一つだと気が付いていない人たちが多い。 ジョイ・ウォン主演の『青蛇』(1993年) 中国などは古い映像どころか、数年前の映像さえもYoutubeに公開しています。一方、日本の某公共放送はYoutubeに流れると徹底的に削除している。 ここに引用した写真類はできるだけ引用元を示していますが、中には元がはっきりしない物や、映像から直接切り取ったものもあり、厳密に著作権を主張されると、ほとんどの写真は削除するしかありません。 2004年に制作された『白蛇伝』 映画『白蛇伝説』 2011年に作られた映画版の『白蛇伝説』です。 テレビでの成功を見て作られたのかどうかわかりません。ジェット・リーというカンフーの大スターを採用したのを見てもわかるように、得意の格闘シーンと、コンピューター・グラフィックによる天変地異の様子で観客を呼ぼうとしたのでしょう(写真下)。 もくろみどおり映画の興行としては成功したようですが、正直、私の好みには合いません。白蛇伝は恋愛物語で、英語の題名が「ITS LOVE」なら、カンフー映画やパニック映画ではないのだから、あまりそういう場面だけ強調すると、何の映画なのかわからなくなってしまう。 これは中国の映画には良くあることで、ジョイ・ウォンの主演した『青蛇』(1993年)も映像は美しく、前半はコミカルな部分も多いのに、後半はカンフー映画まがいになってしまいます。二兎は追わないほうが良い。
坊さんの暴力 私がこの種の映画で問題だと思うのは、仏教の坊さんが暴力を働くことです。中国には少林寺という武道を修行の一つとしているお寺があります。しかし、仏教は徹底した非暴力です。仏教では自分の身を守るために相手を傷つけることすら厭います。それなのに、仏教の僧侶の姿をしながら、相手がいくら悪人や魔物であっても、暴力を働いて良いことにはなりません。 本来、争いを止めるべき立場にある坊さんが積極的に暴力を働くシーンは人々に誤った概念を与えています。 日本でも、禅宗の一部では、座禅の最中に姿勢が乱れると、警策という棒を用いて叩くという習慣があります。音が出るほど叩くのだから、警告を与えるのではなく、明らかに暴力であり、罰則です。お釈迦様の説いた仏教には瞑想はあっても、警策で叩くなんてあるはずもない。 そればかりか、これが取り入れられたのは江戸時代からだと言います。つまり、日本禅宗の祖である道元や栄西はこんなことはしていなかったのです。どこかの愚かな僧侶が始めた馬鹿げた伝統は廃止するべきです。 本当の仏教は非暴力であり、お釈迦様はどんな相手にも言葉で説いた方です。大量殺人鬼のアングリマーラに対しても言葉をもって説いただけで、カンフーや神通で打ち負かしたのではありません。禅などでは拈華微笑といって、言葉でなく伝えるかのような話がまことしやかに伝えられていますが、拈華微笑は作り話です。 テレビドラマ『白蛇後伝』 白蛇伝では白い蛇と青い蛇の精(妖蛇)のうち、白い蛇の白素貞が塔の中に閉じ込められてしまいます。坊主が人の恋路を邪魔したのです。『白蛇後伝』では、残った青い蛇の妖怪「小青(シャオチン)」が白素貞を救おうとするというところから始まりますが、白素貞を救うのは物語のテーマではなく、鮑仁という青年を巡り、小青と双双という名妓(遊女)が恋愛を繰り広げる物語です。 この『白蛇後伝』の一工夫は、主人公の鮑仁が八百年前にタイムスリップしてしまい、そこにいた小青の前世である銭青青が加わり、三人の美女に惚れられるという点です。 青い蛇の妖怪の名前に小青、銭青青など青がついています。しかし、彼女は緑色の蛇です。写真下の小青役の女優の着物も緑色です。青と緑が混同して使われるのは日本だけかと思っていたら、どうやら中国もそのようです。もしかしたら、青と緑の混同は中国からの輸入品かもしれません。 日本語版では『白蛇伝』とありますが(写真下右)、中国語の原題名は『白蛇后传 青蛇的诱惑』ですから正しくは『白蛇後伝』です。『白蛇伝』と記述してしまうと、映画版などもあるので紛らわしい。日本語に訳す人たちにお願いだが、原題の意味をもっと尊重してほしい。 写真上左 中国版の『白蛇后传』(Baiduから転載) 写真上右 日本語版の『白蛇伝』 たいてい映画でヒットすると、テレビのシリーズが始まるのですが、白蛇伝は逆で、テレビ版『白蛇后传』は2009年に、映画『白蛇伝説』は2011年に公開されました。 小青と鮑仁との恋愛が中心で30話もありますから、単純な恋愛では持たないわけで、製作者たちはありとあらゆる邪魔を入れ、もつれた糸に接着剤をぶっかけてかき混ぜていますから、絶対にまっすぐには話が進みません(笑)。 主人公の鮑仁と小青 鮑仁が八百年前にタイムスリップしてしまう設定は、まさにそのからまった糸です。そこには鮑仁の周囲にいた人たちと似たような人たちがいて、さらにドラマが複雑に展開していく。同じ俳優が別な役を演じているだけなので、観ているほうは「あれ?この人、どっちの時代の人だっけ?」と結構忙しい。 鮑仁に恋心を寄せる双双 白蛇伝の時代設定はおおよそ宋の時代ですから、八百年前というと西暦二百年頃の『三国志』の時代になってしまいます。八百年前なのに建物も服装も同じ。数百年程度にしておけば良かったのに、設定に無理があります。 (http://www.h-fly.com/zixun/jkjs/201406/18/nTyEeoBH1fUd.htmlより転載) こういうグチャグチャの人間関係を作ると、最終回での結末が極めて難しくなるのは素人でも予想がつきます。こういう入り組んだ問題を一気に解決する方法は、全員殺すことです(笑)。最終回を私は鼻水をすすりながら観てて、「おい、まさか、やるなよ」と思っていたら、やりやがった。主役の三人とも殺して、後は観音様にお任せという頭が頭痛して痛くなるような結末でした。 (baiduより転載) このドラマではお茶が良く出てきます。蛇よりもこちらのほうに興味が引かれました。主人公の鮑仁は茶園の主であり、登場人物には茶樹の妖怪(妖精)も出てきます。茶園にある彼の自宅はドラマではしばしば出てくる斜面にある竹で作った家で(写真下)、番組のために作った安普請だが、周囲には梅など花が咲き、なかなかきれいです。 時代設定は宋代で庶民文化が花を開いた時代ですから、お茶がさかんに飲まれていたのでしょう。 鮑仁の父は高位の官僚で、茶園の主といっても農民ではなく、農場主です。お茶のコンテストがあり、鮑仁の茶が役所から認定を取り消されるという場面がありますから、当時の中国ではお茶が単なる農産物ではなく、お金や権力と深いつながりがあったのがおもしろい 鮑仁は茶作りの名人で、おもしろい光景が出てきます。その一つは、茶を炒るのに、火傷することも厭わず、素手で鉄鍋で茶を炒っていることです。手で炒らないとお茶がうまくできないという意味のようです。現代でも杭州の龍井茶は熱した鍋で手で炒るそうです。 もう一つは、茶葉を傷めないために、手ではなく、口で茶摘みをするという。それも、唇の薄い若い女でないといけないと、募集をかけて面接をする場面が出てきます。こんなこと本当にしていたのでしょうか。単なる男の下心のようにも見えるが。 (baiduより転載) 劉詩詩 『白蛇後伝』の前半は鮑仁と小青との恋愛です。第15話目頃に、過去にタイムスリップした鮑仁が、鮑家に伝わる絵に描かれ、たびたび彼の夢に現れたた仙女(写真下)のような女性に巡り合います。 夢の中のシーンが上の場面で、ドラマ中でも何度も繰り返されるので、この二人はやがて結ばれるなど、何か深い意味を持たせたつもりだろうと期待していたが、何もない(笑)。 鮑仁がタイムスリップして出会ったのが尹双双という芸妓(遊女)で、教養豊かで技芸にも優れ、豊かな暮らしをして、貴族の子弟から妻にと迫られていたほどでした。双双を演じたのが劉詩詩(刘诗诗)です。 私はすっかり彼女に惚れてしまいました。どこか憂いを秘めた物悲しそうなあんな目で見られたら、即死でしょう(笑)。 中国人の女性は日本人に比べると自己主張が強く、性格がきつく感じられます。それが女優たちにも現れていて、美人でも演技の中に性格のきつさが出てしまい、気の弱い私など一歩引いてしまいます。 劉詩詩にはそれが感じられない・・・いや、実際の彼女どうであるかなんて、私は知るよしもなく、あくまで物語の世界での彼女の演じた双双です。 双双が詩の上句を読み、街の男たちに下句を即興で作らせて教養を競わせると、鮑仁が見事に応えます。日本でも平安貴族たちが歌を競ったというのがありますから、それと同じなのでしょう。 鮑仁の知性に感嘆した双双は男装して、彼を酒の席に誘います。いくら男装しても(写真下)、劉詩詩は誰が見ても、たぶんヒゲをつけても女性にしか見えないが、物語ですから、大目に見ましょう。クラーク・ケントも眼鏡をかけると誰もスーパーマンだと気が付かなかったのですから(笑)。 二人は酒を酌み交わして身の上話などをしているうちに意気投合して、鮑仁は義理の兄弟になろうと誓います。 中国の物語にはしばしばこの義理の兄弟が登場するところを見ると、彼らの間では珍しくないのでしょう。テレビ版『画皮2』でも主人公と公主(王女)は義理の兄妹になります。『白夫人の妖恋』の主演の李香蘭の名前は、知り合いの中国人と義理の親子関係になった時につけてもらったそうです。 鮑仁からの義兄弟の提案に、双双が「では、私が女だったらどうするか」と聞くと、彼は「その時は妻にしよう」と誓います。その返事を聞いた時の双双のうれしそうな表情が演技とは思えないほどで、私はこのシーンが好きで、Youtubeで何度も見直してしまいます。 双双は幼くして両親を亡くし、遊女にならざるを得なくなり、貴族の子弟との婚約もうまくいかず、表の派手な生活と違い、何一つ幸せがなかったのに、初めて幸福の灯りを見たような気持ちをよく演じています。この後、十数話も物語が続きますが、結局、双双はこの時が一番幸せだったのではないだろうか。 写真上:劉詩詩(baiduから転載) 中国が経済的に発展するとともに、大衆の求める娯楽に応じて伝奇小説がたくさん映像化されています。これは私にとってはうれしい。これからもぜひ中国伝奇映画を日本にどんどん輸入してほしい。皆さんも伝奇小説の中の美しい恋愛物語の世界を味わってください。 |