電柱と電線 日常の景観に目を向けましょう(1) 上の写真は近くの電柱を写したものです。まるで針金で空を切り取ったように電柱には十数本もの電線が張られています。この光景を私の印象でいうなら「だらしない」です。髪もとかさず、無精ヒゲをはやし、薄汚れたワイシャツとシワのよったズボンはいたサラリーマンのようです。 自分の家の部屋の天井や壁に、写真のように電線をはわせるようなことはしません。なぜでしょう?実用上はなんの問題もないはずです。こういうことをしないのは、見た目、つまり景観の問題です。では、自分の部屋には電線をはわせないのに、なぜ屋外には電線をはわせているのでしょう。 これを書いたのは、皆さんに、電柱と電線だらけの異常な景観の中に我々が住んでいることを自覚してほしいからです。 デザイナーの家の入口に電柱 話は少し古くなりますが、「芸術家が暮らす東西名作の家」(テレビ朝日、2001年12月29日)というテレビ番組に、有名なファッションデザイナーが作ったという芦屋市にある大邸宅が紹介されていました。さすがはデザイナーが作っただけあって、家全体が美術館みたいで、「スゲエー」と驚きました。 (http://www.tv-asahi.co.jp/tatemono/html/housou/01/011229.html) しかし、カメラがいったん敷地の外に出て、道路からの入口を映し出した時、私はギョッとしました。入口のすぐそばの道路に電柱が建っていたのです。 完全にぶち壊しです。ものすごい豪邸も、豪邸の芸術性も、入口のそばに無粋に立てられた電柱一本で全部パーです。まるで、ミロのビーナスの彫像にモップが立てかけてあるようなもの、モナリザの額縁に雑巾が干してあるようなものです。 電柱はデザイナーの敷地にあるわけではないから、彼女の責任ではありません。しかし、私がデザイナーなら「そこの電柱、邪魔だ!どけろ!オレの作品を壊すつもりか」と電力会社に抗議するでしょう。 広告でも気にしている電柱と電線 下の写真をよく比較してみてください。同じ建物をほぼ同じ場所から撮ったものです。 写真左は建売住宅の新聞の折込広告からコピーしたもの、右はその同じ現場を私が撮ったものです。どこかのリゾート地かと思うほどオシャレな雰囲気の建物に撮れています。だが、写真を撮る腕の差は別として、ずいぶん修正してあるのがわかります。 もっとも明瞭な修正が電柱と電線です。広告では電柱と電線が完全に消されています。撮影した角度の問題でない証拠に、右側にある建物の前にある電柱が、広告では屋根から上に突きだした部分の電柱だけが消され、下の部分だけが残っています。 上記の写真もほぼ同じ場所を撮影したもので、左上が広告、右上が私が撮ったものです。右上の写真の左側を見ればわかるように、左側に電柱があるために、左上の写真では写らないようにしています。 広告に偽りありと告発したいのではありません。建売業者も電柱や電線が風景を台無しにしていることを承知しており、また見るほうの客たちも、実は電柱や電線が邪魔だと思っているのです。 そういう目で、テレビのコマーシャルなどを見てください。京都のような古い街並みの中に電柱と電線が映っていると、それだけでも興ざめしてしまいます。制作者とこれを許可した広告主の感性を疑ってしまいます。 電柱のない団地の例 下の写真をご覧になっていかがでしょうか。私の素人写真でも、このまま団地販売の広告にも使えそうな写真もあります。もちろん、いっさい修正などしていません。電柱がまったくなく、すっきりした街並みだからです。 この団地は、1990年代はじめに当時の住宅都市整備公団が販売したものです。つまり、団地から電柱や電線を取り除こうと思えば、いくらでもやれるのです。ところが、公団がこの後に近くに販売した団地は全部「電柱団地」でした。 オシャレな建物も台無し 私の住む田舎の街にも、美容院やブティックなど、ちょっとオシャレな建物が最近増えました。ちょっとオシャレな建物なのに電柱と電線がぶち壊しにしている事例をあげます。電柱や電線を極力写らないような写真と、次に現実の電柱や電線のある風景とを比較します。写真は店の名前など以外は修正してありません。 例1.美容院(たぶん) 写真下左はオレンジと水色を基調にした店で、好き嫌いはともかく、オシャレに作ってあります。しかし、ちょっと目線を上げたのが写真下右で、建物の上に電線があるためにせっかくの風景が台無しです。 例2.ケーキ屋 写真下の二枚の写真を見て、「同じだ」と思うなら、あなたの目は電柱や電線に汚染されています。左の写真だけ見ると、まるでヨーロッパのおしゃれな店のようにも見えます。しかし、右の写真の左側には電柱があり、しかも、空をみると、電線もあるから、これが日本だとわかります。(写真には店の名前を消す以外は手を加えていません。) 例3.美容院とブティック 下の二枚の写真は、同じ敷地にある美容院とブティックです。白い建物とレンガを敷き詰めた地面とマッチして、これもなかなかオシャレです(写真の修整はしていません)。 これを少し離れて見たのが下記の写真です(写真上左の車は移動した後)。右側の建物のすぐ隣には電柱があり、空中には電線が舞っていて、上の写真ではヨーロッパ調だったのに、印象がまるで違います。 例4.アパート 下左の写真はアパートです。建物全体がレンガ調で、デザインもすっきりしており、布団が干してなければ(笑)、遠目にはイギリスあたりのアパートみたいです。だが、裏に回ると、写真下右のように電柱が建っていて、急に日本のアパートになってしまいます。 ガイジンから見た日本 一昔前、外国人から見た日本とは「フジヤマ、芸者、腹切り」でした。最近、海外のゲームの中に出てくる日本の風景は「電柱、ゴミ袋、自転車」のようです。日本に来た彼らには、電柱と電線だらけの風景と、ビニール袋に入れられたゴミのあるゴミ捨て場、そして、自転車が駅などの周囲にたくさんあるのが物珍しいようです。 逆に言うなら、電柱や電線はそのくらい外国人には奇異に見えているのです。日本人は見慣れているから気にならないだけで、かなり異様な光景だという自覚を持つべきです。 電線の地中化はロンドンやパリやボンなど先進国の都市はほぼ100%、一方、東京の国道や都道でさえ半分で、東京都の道路全体ではわずか7%という驚異的な数字です。これは水洗トイレの普及率が低いのと同じで、先進国としては相当に恥ずかしい数字です。 なぜ電柱がなくならないのか このように風景を比較されると、大半の人たちは「たしかに電柱や電線はないほうが風景がすっきりしていて良い」と認めます。少数ではあるが、マスコミなどでも電柱が景観を損ねていることを指摘する声もありました。だが、圧倒的に少数です。 たとえば、 「特定非営利活動法人 電線のない街づくり支援ネットワーク」 は名前どおり、電柱や電線をなくそうという活動をしているグループです。しかし、たいへん失礼ながら、協賛する企業はきわめて少数です。 なぜ見苦しいとわかっていて放置されているかついてはいくつか理由が挙げられています。 理由1.地中化の経費が高い 日本は雨が多いために、電線の地中化に厳しい条件があるために、その費用が高くつくというものです。ただ、雨が多いなどと言ったら、熱帯の都市であるシンガポールにどうして電柱がないのかということになります。 つまり、これは地中化ができない理由ではなく、「地中化をしたくない理由」です。 素人が考えても、共同溝を作り、電線を地中化するよりも電柱を立てるほうが安くあがるのはわかります。一円でも安くしたいから電柱にしているということでしょう。 しかし、安くあげたいという消極的な理由ではなく、もっと積極的な理由があるようです。 理由2.電柱でもうけている 電柱は利益を生み出しているのです。電柱に貼られている広告や、ケーブルテレビなどの業者が電柱を利用するのにはお金を払いますから、電柱は持ち主にとっては働き手なのです。彼らにしてみれば、違法でもなんでもなく、いったん立てれば文句も言わずにずっと働いてくれる電柱はありがたいだけです。これでは彼らが積極的に電線の地中化なんてするはずがない。 「電力会社や電話会社は金のために景観を壊して、けしからん」と叫ぶべきなのだろうが、私はちょっと違います。 理由3.日本人の景観への意識があまりに低い 私は一番の理由はこれだと思っています。日本人の景観や環境への意識があまりに低いからです。たいていの日本人は電柱とグチャグチャの電線のある風景に慣れてしまい、自分にとって目に見える実害がないから、気にしていないのです。 日常の景観に価値をおこう 我々一人一人が、目線を電柱や電線に向けて、その不愉快さを感じて、自覚することが大事です。景観自体は一円も生み出さないし、逆に直接的な害はありません。だが、人間の生活を作り上げている環境の一つだという自覚を、仮にも先進国と自称するなら、持つべきです。 イタリア人が芸術的なセンスに優れていることは誰しも認めるところです。しかし、遺伝的に芸術性に優れているはずはなく、環境がそれを作り上げています。ローマの街中は美術館のようであり、個人の建物でも、窓一つを変えるのにも役所の許可が必要です。こういう環境に小さい頃から育ったら、芸術的な感性が磨かれるのは当たりです。逆もまたしかり。 戸建てやマンションを買う人に注目してほしいのは、自分の家だけが単独で成り立っているのではなく、その団地全体など周囲の環境も一緒に買うのだという点です。一生かけて金を払うのに、電柱と電線だらけの薄汚い景観を買うのでしょうか。そんな環境で育った子供が芸術性や豊かな感性を育まれるはずはありません。 環境などというと大袈裟だが、野生の動物なら自分の住処をきれいにしようとするものです。なのに、日本人はそんなことすら忘れている。「自分一人くらい」と言わずに、明日、あなたが街中を歩く時、目線を上げて、不愉快な光景が頭上にぶら下がっていることを意識してください。 |