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山形の春祭り

 

 

 祭りというと、お盆の頃の夏祭り、収穫を祝う秋祭りが多いようですが、山形には春にも祭りがあります。これは山形県人がいつもお祭り気分の脳天気な県民性だという意味ではなく、雪国の人にとって、長く雪に閉じ込められていたのが、春になって花が咲き、新緑の屋外に飛び出すことに大きな解放感があるからです。また、貧しい農業県だったことも大きな理由で、このことは後で説明します。

 山形の春祭りは20202021年は新型コロナの流行でほぼ中止になりましたから、ご紹介する4つの春祭りは2019年以前の様子です。

 

 

山形の春祭り1:薬師祭り

 最初に取り上げるのは毎年5月8日~10日に、山形市内で開催される植木市、植木まつりです。

 

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 数年前の、マスクをしない人混み見るとなつかしい(写真下)

 

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 植木祭りの正式名称は「薬師祭植木市」で、国分寺薬師堂の祭礼に合せて開かれたようです。その薬師堂が写真下で、ケヤキの古木のある広い境内は薬師公園という名前で市民に開放されています。

 

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 国分寺と言っても、聖武天皇(在位724年~749)が命じた国分寺とは直接は関係ありません。山形で造られた国分寺はこの場所やこの建物ではありません。

 

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 この薬師堂は山形の城主だった最上義光(15461614年)が、山形城(霞城)から見て鬼門を護らせるために、別な所にあった国分寺を現在の場所に移築したと言われています。その寺も1911(明治44)年の火災で焼失し、現在の建物はその後で建てられたのですから、まだ百年ほどしかたっていません。つまり聖武天皇の造った国分寺とは別物です。

 

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 写真下の左側は普段の薬師堂と境内で、右側はほぼ同じ方向を撮ったお祭りの時の写真です。街の真ん中に残った緑地帯で、普段は人影もまばらです。

 

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 写真下の境内の石畳の道が参道で、ここにも両側に店が並びます。植木市は山形城主の最上義光(15461614年)が、大火があったので、緑を取り戻すために開いたのが始まりと言われていますから、四百年くらいの歴史があることになります。四百年も続いたのに、2020年と2021年に二年にわたり開催は中止になりました。来年はコロナも収まっているだろうから、開催されるでしょう。

 

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 子供の頃、祭りに来た私の興味は、当然、夜店で売られる食べ物やオモチャでした。植木や草花なんて、農家である私の家には売るほどありましたから、珍しくも楽しくもない。

 

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 大人になってから夜店を見ると、売っている人たちには失礼ながら、どうしてこんな物が輝いて見えたのだろうと不思議になります。

 

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 子供の頃は食べ物やオモチャも少なく、祭りの夜店が特別だったのでしょう。ただ、それなら、今のように、食べ物もオモチャも豊富で、毎日がお祭りみたいな時代に育った子供たちは、興味がないはずなのに、実際は、彼らの反応は私の子供時代と同じです。

 

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 テントを張っただけの安普請の店(失礼)、原色を塗ったような食べ物の下品な色(失礼!)、プラスチックの安っぽいオモチャ(失礼!!)、そしてお祭り全体のどこか浮き浮きした雰囲気が、普段のきり決まった日常と違うからでしょう。

 

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 地元のテレビ局が取材中です(写真下)。植木市ですから、昔は草花や樹木を売る店が大半で、祭りの夜店は少数だったのに、今は完全に逆転しています。子供の頃に比べて、祭りの規模は小さくなって、店の数も半分くらいになっているように見えます。昔は店が出ていた通りの一つは使われていません。

 

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 子供頃の植木まつりに比べて減ったのは植木の店と、写真下の農機具などの刃物を売る店です。農業人口が減り、農機具が量販店などで安く売られているから、すたれたのでしょう。

 

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 逆に数が変わらないのが、一つしかないお化け屋敷です(写真下)。私の子供の頃からあって、設置される位置は薬師堂境内の同じ場所で、記憶にある店構えもこんなものでした。ただ、恐がりの私は中に入ったことがないので、出演者のオバケがどう変わっているかはわかりません。

 写真下左は「お化け屋敷」、右は「おばけ屋敷」で、絵も違うのは、別な年に撮ったからで、模様替えか、それとも別な業者だろうか。

 

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 写真下の薬師堂の境内の外の角地にある広島風お好み焼きは大人気で毎年行列ができます。二枚の写真は背景も店もそっくりですが、写真下右の道路に引かれた白線を比較するとわかるように、別な年に撮った写真です。こんなふうに毎年、同じ店が同じ場所で店を開いていることが多い。

 

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草花

 草木の店は減ったが、それでも、今は花の咲く時期でもあるので、お客さんたちが集まります。

 

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 ボタンやシャクヤクなど見事です(写真下)。私が感心するのは、この三日間のお祭りに合せて、花が咲くように調整していることです。

 

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 祭りの開催日に「母の日」が入っているので、カーネーションは切り花と鉢物の両方が必ず売られています(写真下)

 

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大高嶺薔薇

 栽培品が多い草花の中に、山野草を売っている店も少しだけあります(写真下)。花が地味で、咲いていないことも多いので、人気はいまいちだが、私の関心はこちらです。

 

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 写真下のおじさんはいつ行っても椅子に座って、客ではなく、小さな植木鉢の植物のほう見ている不思議な人です。

 

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 シラネアオイがあります(写真下)。売値は1380円だが、祭りの最終日で夕方ですから、500円でいいというので、私は買おうかと思いました。シラネアオイは高山植物のイメージですが、昔は低い山にもありましたから、私の所で育てるのは無理ではありません。私は売り手に「栽培しているのか」と質問しました。おじさんは「いいや、青森の農家の人が山から採って来たものだ」と正直に答えました。私はがっかりして諦めました。私がここで買えば、もっと野生のシラネアオイが減る。

 

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 珍しいバラがあります(写真下)。名札には「箱根サンショバラ」とあり、正確にはサンショウバラで、またはハコネバラと呼ばれることでもわかるように、箱根周囲に生えているバラです。

 

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 山形にはハコネバラはありませんが、オオタカネバラという野生のきれいなバラがあります(写真下)。オオタカネバラは中部地方よりも北の日本海側に分布し、一般には高山から亜高山地帯に生えていて、開花時期が短いので、見かけるのは難しいと言われています。

 

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 ところが、低い山でも見られる場所があります。風穴(ふうけつ、かざあな)と呼ばれる自然の冷風の吹いている場所で、夏でも冷房が効いているので、氷河期からのオオタカネバラが残ったのだと言われています。

 国指定天然記念物で観光化されているのは、福島県南会津郡下郷町の中山風穴地特殊植物群落、秋田県大館市の長走風穴植物群落などがあり、オオタカネバラの群生があるそうです。

 

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 山形県でも南部の高畠町の小湯山風穴植物群落(こようさん かざあな しょくぶつぐんらく)は県指定天然記念物になっていて、ここにもオオタカネバラがあるそうです。ところが、保護のために具体的な群生場所は公開されていません。保護のためには良いことだが、見られないのでは行っても意味がない。

 

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 ここに載せたオオタカネバラは風穴のある別な山で、公式には公開されていないので、山の名前は出せません。見た範囲では、群落は小さく、バラの背丈も低い。風穴の規模が小さく、バラにとってあまり良い環境ではないからでしょう。地球温暖化でバラにはもっと厳しい環境になりつつあるのだから、徹底した保護をしないと、失われる危険性があります。

 

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庭木

 植木市なのに、草木が減ってしまった現実を示すのが写真下です。写真下左は一般的な出店のある通りで、まだ平日の日中なので、多くないものの、それなりに人が歩いています。その同じ時間帯に草木が売られている通りに行くと、写真下右のように閑散としています。

 

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 草木の中でも減ったのが樹木関係です(写真下)。私はこういう大きな庭木を見ると、お薬師様の植木市に来たという気持ちになります。昔は日本庭園に使うような庭木が所狭しと並べられ、どうやって運んだのかと驚くような大きな樹木もありました。しかし、今は数えるほどもない。

 

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 写真下は1969(昭和44)年に山形市観光課が発行したパンフレットに載っている植木市の様子です。写っている樹木は、背の高い樹木も含めてほぼ全部が街路樹ではなく販売用の植木です。高度経済成長期の活気を反映して需要があった。

 

 

 アオダモは4万円と7万円、ナツハゼは2万円でまだお手頃価格です(写真下)。ちょっと大きなブナは13万円と高そうに見えますが、こんな程度で驚いてはいけません。

 

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 写真下左の五葉松は150万円のところをたった50万円、右の赤松は200万円のところを100万円ですよ!

 

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 昔は、値段の半分は掘り起こして運ぶ運送費ではないかと思うような大きな樹木がたくさん出て、道の両側に林が出現していました。

 

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 庭木に合せて庭石も売られています(写真下)。これもここに運び込むのに重機がなければ無理でしょう。

 

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 庭木が減った理由は、日本庭園を造る人たちの減少です。松など毎年手入れをしないとたちまちボサボサになってしまうので、見栄え良く剪定するには専門業者に頼むことになります。維持費に多額の費用がかかり、写真上の庭石なども素人が動かせる代物ではありません。つまり、日本庭園用の庭木や庭石は今の日本の一般的な戸建ての庭には合わない。

 

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ツツジ

 松などの庭木が減る中でそれほど減らないのはツツジです。ツツジは松と違い花も派手で、小さな株なら値段も手ごろで、庭に植えている家も多い。植木祭りがちょうどツツジの花が咲く時期なので、道の両側に開花したツツジが並ぶと、ツヅシ公園が出現します。

 

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 色鮮やかで派手だが、個人的にはあまり好みではありません。自分の家にヤマツツジが植えられており、子供の頃からその花の色に慣れていると、品種改良されたツツジはゴテゴテと厚化粧したようで、正直なところ、今でも苦手です。

 

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 この時期、どこもツヅジが花盛りで、山形県でも、寒河江市の4万3千株もある「寒河江公園つつじ園」や、長井市の3千株の「白つつじ公園」、1万株のヤマツツジを中心とする天童市の建勲(たていさお)神社などが有名です(写真下)

 

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満開のツツジの様子を伝える山形新聞の記事

 

 私がツツジを見に行ったことがあるのは、山形市の北東にある大岡山(標高400m)のツツジ公園です(写真下)。公園と言っても、元々ツツジがたくさん生えていた山の斜面に、他の雑木を切り払って陽を当てることで、もっとツツジを増やしただけです。

 

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 だから、生えているのは自生のヤマツヅシ(写真下左)とレンゲツツジ(写真下右)だけです。

 

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 私はこの大岡山のツツジ公園の影響を受けて、自分の裏山で、ヤマツヅシの多い所を公園化しようと、雑木を伐採して陽を当てているのが写真下です。ただ、ここは山の上で、皆さんに気軽に来ていただける場所ではないので、私の専用のツツジ公園になりそうです。

 雑木を切りながら気が付いたのは、だいぶん前にここの雑木を切った跡があることです。つまり、ここにヤマツツジが多いのは、これを増やそうして誰かが前に雑木を切ったからです。長年、放置されていたのだから、その人はすでに死んでいるのでしょう。では、私がその仕事を引き継ぐことにします。

 

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 写真下は私の家のレンゲツツジで、このツツジの花の色だけはお気に入りなのに、野生品種であることを大岡山で見るまでは知りませんでした。いかに私がツツジに無関心だったかを示しています()

 

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山形の春祭り2:高原植木踊り

 山形の春祭りの二つ目は「高原植木踊り(たかはら うえきおどり)」で、山形県の無形文化財に指定され、毎年5月5日に行われています。もちろん20202021年は新型コロナで中止です。薬師堂にも近いし、植木踊りというから、薬師植木祭りと何か関係している踊りかと思ったら、江戸時代までの集落の名前が植木村だったことから来ていて、「植木の踊り」ではなく「植木村の踊り」という意味のようです。植木村というくらいだから、昔は植木を育成していたのかもしれません。

 

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 植木踊りの会場は高原町の高原児童遊園という広場で、そこに小さなお堂があります(写真下左)。登り旗には「大山津見神」と書かれてありますから、そういう神様が祭られているらしい(写真下右)

 

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 写真下の、子供が鈴紐にぶら下がって遊んでいるのはけしからん、なんて怒ってはいけません。古事記に出てくる日本の神様たちは、こういうことを微笑ましく見るような大らかな神様が多い。明治以降、国家神道になって為政者たちとの強い結びつきを得てから、様式ばかりの堅苦しい宗教になってしまいました。宗教が権力や政治と結びつくと、ろくでもないことが多いのは、歴史を見れば十分です。

 

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 出店が一軒だけあって、他にも地元の人たちが食べ物の販売を行っているなど、手作りの地元のお祭りです(写真下)

 

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 子供たちはリヤカーに積んだ御神輿を引き、軽トラックの荷台に積んだ太鼓といっしょに町内を練り歩き、子供会に寄付をお願いします(写真下)

 

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 お堂では地元の人たちが入り、神主による神事が行われています(写真下)

 

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 いよいよ、植木踊りです。シマウマのような浴衣が制服のようです。この日は三つの演目が踊られます。

 

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 二つ目は、元々は女性の踊りだったのが、踊り手がいなくなり、男性が踊るようになったという(写真下)。手ぬぐいを姉さん被りにした男性が踊っています・・・元に戻せないものでしょうか。

 

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 三つ目の演目は男性三人か二人による、格闘技のようなかなり激しい踊りで、どう見ても年寄は踊れません()

 

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 高原植木踊りは二百年前ほどの江戸時代に、伊豆国の三津出身の三喜和尚が村人に教えた願人踊(がんにんおどり)だと言われています。願人(願人坊主)とは、ウィキペディアによれば、次のようにあります。

 

願人坊主(がんにんぼうず)は、江戸時代(17世紀 - 19世紀)に存在した日本の大道芸人で、神仏に対する参詣・祈願あるいは修行・水垢離を客の代理として行うことに始まり、江戸市中を徘徊して軽口、謎かけ、住吉踊り、あほだら経など、さまざまな芸による門付、あるいは大道芸を行う者の総称である。

 

 「門付(かどづけ)」とは、家の前で芸能をして、お金をもらう人たちのことです。この説明からは、願人とは今日の僧侶とはちがい、祈祷や大道芸をしてお金を得ていた人たちのようです。願人踊りという一定の踊りがあるのではなく、願人たちがそれぞれの知っている踊りを伝えたのでしょう。だから、秋田県などに残る願人踊りはここの植木踊りとは似ていません。

 

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山形の春祭り3:山家田植踊り

 春祭りの三つ目の山家田植踊り(やんべ たうえおどり)は山形市の指定無形民俗文化財で、薬師祭の薬師堂と川をはさんで東側にある鈴川地区で毎年4月29日に行われます。当然、踊りは新型コロナのために2021年も中止です。

 

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 町内の道の電柱には祭りを示す赤いシールが貼ってあります。赤いシールの下の黒い縦縞は葬式用ではなく、電柱に衝突しないようにと設置された反射板で、まるで結婚式と葬式が重なったような光景です。

 

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 この近くの団地でも子供たちが御神輿をリヤカーに乗せて・・・あら?御神輿ではなく、酒樽ではないか。お神酒が本尊では、親たちが喜びそうです。ここでも子供会が主催して、家々を回り、寄付を集めます。

 

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 田植え踊りの会場は、住宅地の真ん中にある高さが20mほどの小山の上にある堂の前です。山頂にある虚空蔵堂(こくうぞうどう)の前で田植え踊りが奉納されます(写真下左)。堂は左側に増築されたらしく、非対称な形をしています。

 

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 御堂の本尊は虚空蔵菩薩で、堂内では、真言宗らしいお坊さんが護摩を焚いて法要をしています(写真下)

 

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 その間に、続々と衣装を着た子供たちが登ってきて、田植踊りの準備をしています(写真下)

 

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 写真下に写っているお年寄りが田植踊保存会の人らしく、始まる前、踊りの最中、終わった後も、子供たちの衣装を直してあげていました。こういう裏方がいるから、行事が継続されるのでしょう。

 

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 一同で虚空蔵菩薩に挨拶をして、いよいよ奉納が始まります(写真下)。場所は狭く、観客はほとんど地元の人で、私のようなよそ者は少数です。

 

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 田植踊りの役は主に四つに分かれています。男の子が演じる「テデ棒」、彼らの後ろにいて女の子が演じる「早乙女」、楽器を演奏する子供たち、そして踊りを誉める「誉め言葉」という役が一人です。山家田植踊りの演目は9つあり、その内の「お正月(田起こし)」「5尺手ぬぐい(稲刈り)」「上がりはか(収穫)」の3つを上演します。

 

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 男の子が手に持っているのが「テデ棒」で、女の子が持っているのが、短冊状に切った竹を紐でつないだビンザサラという打楽器です。

 

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 写真下の黒い羽織袴の少年は「ほめ言葉」という、踊り手を誉める役です。昔の言葉の長い台詞ですから暗記するのは大変だったでしょう。私の推測ですが、昔、実際に踊った人たちを誉めたことから、それが踊り中にそのまま取り入れられたのでしょう。

 

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 ここで踊っているのは、すぐそばにある鈴川小学校の五年生の児童です。四年生で募集して、一年間練習をしで、この日が晴れ舞台で、踊るのは五年生の時だけです。子供たちが演じるようになったのは1965年からで、まだ半世紀ほどです。希望者を募って、子供たちが演じるのは良いアイデアで、小学生のほうから踊りたいという希望があって実現したそうです。

 大人たちの山家田植踊りもあって、ネットで見ると・・・やはり子供のほうが良い。特に、オッサンの早乙女には、私のカメラは被写体を変えるように要求するでしょう()。早乙女は男性が演じるのが伝統だったようで、そういう伝統は廃止していい。

 

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 一同で記念撮影をして、山家田植踊りの奉納は無事に終了です(写真下)。親と子供たちには良い思い出になるでしょう。

 

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 帰り道は、五月晴れの空の下、西に月山がくっきりと見えて、一面の菜の花がきれいです。写真下左の田んぼを見ればわかるように、山形ではこの時期はまだ田植えが始まっていません。田植えが始まったら、田植え踊りどころ騒ぎではないくらい忙しくなるから、その前のまだ春を楽しむ余裕のある時期に祭りが開かれたのでしょう。

 

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 田植踊りの解説を読むと、飢饉の多かった東北での豊作を願う神事だとあります。それもあるが、私は神事に見せかけた娯楽だと思います。昔の田植踊りの行事は小正月から始まり、春まで続いたというのだから、農閑期の娯楽です。今のように機械化される前の田植えは泥だらけの重労働で、早乙女のようなきれいな着物を着るはずもない。きつい労働が始まる前に、厳しい冬から解放されて、春のひと時を楽しもうという、娯楽の少なかった時代の農民たちの知恵です。これなら神事というもっともらしい理由を付けて、飲んだり踊ったりできる。

 

 

山形の春祭り4:間沢田植踊り

 四つ目の春祭りは間沢田植踊り(まざわ たうえおどり)で、山形から北西に30kmほど離れた西川町の熊野神社の境内で毎年5月3日に行われます。

 山形の田植踊りは、男性の踊り手によって「テデ棒」系と「弥重郎」系に分けられ、山家田植踊りは多数の前者で、間沢田植え踊りは少数の後者だというので見に行くことにしました。

 

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 太鼓を叩きながら、神輿を担いで町内を練り歩いています(写真下)。地元の人に聞いたら、神輿を担ぐようになったのはわりと最近だそうです。

 

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 別に子供用の神輿もあるらしい(写真下)

 

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 間沢田植踊りの会場となる熊野神社は幹線道路に近い丘の上にあります(写真下)

 

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 参道には地元の人たちが企画した店がいくつか出て、お祭りの雰囲気です(写真下)

 

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 参道を登った敷地に熊野神社があり、その前の広場が会場です。灯籠も建物もまだ新しい(写真下)

 

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 やがて主役たちがやってきました(写真下)

 

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 構成は、女子の早乙女が四人、男子の弥重郎が五人、これに「誉め言葉」役が加わります。間沢では、1991年から子供たちが熊野神社の例大祭で田植踊を踊るようになったというから、わりと新しい。

 

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 小さい女の子は、お姉ちゃんの早乙女を見て、自分も大きくなったら着たいと思うでしょう(写真下)。こういうことが伝統を絶やさないための重要な要素です。

 

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 家族は子供の着付けを直前まで手直しします(写真下)

 

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 間沢田植踊りなど、この近隣の田植踊りの特徴は、男の子たちは「弥重郎」という仮面を付けていることです(写真下左)。一方、山家田植踊りなど他の多くの地域の田植踊りでは、男の子たちは「テデ棒」という房の付いた棒を持っています(写真下右)

 

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 外で踊り手たちが準備をしている間、神社の中では神主によるお祓いがおこなわれています(写真下)。ここでも、参加者全員が加わるのではなく、男性の、主に老人たちが参列しているだけです。

 

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 挨拶があって、いよいよ田植踊りが始まります(写真下左)。演奏は大人がしています。

 

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 早乙女の四人、弥重郎の五人は、たぶん応募して来た子供の人数で決まったのでしょう。

 

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 踊りを誉める「誉め言葉」の役が写真下の手ぬぐいをほっかむりした人で、彼の服装は、一昔前の農作業をする時の農民の姿そのままです。彼だけは大人で、山家田植踊りと違い、弥重郎たちと一緒に踊っているから(写真下左)、子供たちの踊りの先生ではないでしょうか。

 

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 稲作は日本中で行われているのだから、私は田植踊りは日本中にあるものだと信じ込んでいました。ところが、学者の調査では、田植踊りは東北地方だけで、それも福島、山形、宮城、岩手のみで、秋田や青森はないという(菊地和博、東北文教大学・東北文教大学短期大学部紀要、7号、2ページ、2017)

 

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 菊地氏の「東北の田植踊りの起源・伝播に係る基礎的研究」(東北文教大学・東北文教大学短期大学部紀要、6号、80ページ、2016)によれば、山形県では約20市町村で田植踊りが行なわれているとあります。これを元に私が地図上に分布させたのが下図です。「山形8」とは山形市では8カ所で田植踊りが行なわれているという意味です。

 

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 山形県の田植踊りはほぼ山形市を中心とする村山地方で数多く行われているのがわかります。南部の置賜地方の米沢盆地は穀倉地帯なのに一件で、日本海側の庄内地方は大穀倉地帯で、当然、田植踊りが盛んだろうと思っていたら、なんとゼロ。どうして東北地方の中でも、また山形県内でも、これほどの偏りがあるのか、学者は伝播経路を表すものと解釈しているようですが、十分に納得できる説明ではありません。

 

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 演目を終えて、今日の晴れの舞台は無事に終了しました(写真下)

 

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 帰りに、熊野神社の近くにある「菓子処 松月」という和菓子店で松月羊羹を買いました(写真下)。地元の人に、うまいから、ぜひ買っていけと勧められたからです。お土産にあげた方からも喜ばれ、私もお茶と一緒においしくいただきました。

 

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祭りとオリンピック

 山形の春祭りはいかがでしたか。植木踊りや田植踊りを取り上げた理由がもう一つあって、それは三カ所ともに、観光客を集める商業目的の祭りではない点です。地元の人たちが自分たちで楽しんでいる祭りです。

 地元の祭りと商業用の祭りは明瞭に線引きできるものではないが、私の好みは前者で、後者にはほとんど行ったことがありません。商業用の祭りは、事の良し悪しは別として、お金や利権がからむので、私の好みからは離れる。

 

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 最も好みからかけ離れた商業用のお祭りの典型がオリンピックです。私は日本がオリンピック開催地に名乗りを上げた時から反対でした。理由はオリンピックが商業主義と批判されているからだけではありません。五十年前と違い、今は巨額の費用を使い、お祭り騒ぎで国を盛り上げるのではなく、もっと成熟した社会を目指すことにその巨額の費用と知恵を使うべき時期に来ていると思うからです。

 

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 新型コロナの世界的な大流行は大半の国で収まっておらず、日本でもワクチン接種が完了しておらず、医療機関がコロナ患者の増大に悲鳴をあげて、感染対策の専門家たちがオリンピック開催に警鐘を鳴らしていました。政府は「三密」を避けて「人流」を減らせと要求するから、国民は地元の小さなお祭りすらも中止して忍耐をしている時に、政府自らはオリンピックで三密と大きな人流を作るという。

 しかも、国際オリンピック委員会のバッハ会長からは「犠牲が必要」と言われ、コーツ副会長からは「緊急事態宣言でも開催する」などと、日本と日本人を軽視したような発言をされても、政府は抗議どころか、彼らに土下座して、オリンピックを開くという。普段は「断じて容認できない」「毅然たる態度」などと口にする政治家たちが借りて来た猫のようにおとなしい。

 

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 オリンピック開催は政府の国民へのコロナ対策の指示と矛盾し、バッハ会長らの暴言にも卑屈な態度を取り続ける政府と関係者を見ると、菅総理の「国民の命と健康を守る」という口癖や、オリンピックの掲げる友情、連帯、フェア・プレイの精神とは正反対で、本音は自分たちの政治的な利害、権力、利権のためなのが透けて見えます。テレビで放送された言葉を借りるなら、今回のオリンピックは「最初から開催ありき、観客ありき、最後は時間切れで強行突破」です。

 東京五輪・パラリンピック組織委員会が、オリンピック開催で感染者が増えると予想を出しました(下図)。この予想は恐ろしいことを示しています。それは感染者が増えれば死者も増えますから、死者が増えてもオリンピックを開催すると政府と関係者が宣言していることです。これのどこが「国民の命と健康を守る」「安心安全」なのでしょう?

 

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(東京新聞2021611日より転載)

 

 日本オリンピック委員会(JOC)の理事としてただ一人、東京五輪開催への懸念を直言してきた山口香氏は、退任するにあたり、政府とJOCについて次のように述べています。

 

「不安や問いに答えない、やると決めたらやる、というのは独裁に近いと思います。『安心安全』といい続けて物事が進む、そんな世の中は怖くないですか」(朝日新聞デジタル、2021623)

 

 鋭い指摘で、「独裁」という言葉を大袈裟ととらえる人もいるだろうが、根っこは同じです。この件がオリンピックではなく、「国を守るため」だったら、どうでしょう。こういう怖いやり方が今回、堂々と通用してしまったことに、もっと危機感を持つべきです。

 

 

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