天山山脈のチューリップ 2日目 2017年4月19日(水) ブハラ → アイダール湖 → サマルカンド 朝五時すぎに起床。外は晴れており、部屋の温度が25℃で、暑くも寒くもありません。ちょっと睡眠不足だが、ブハラは一泊だけなので、朝の散歩に行こうと準備していると、突然停電です(5:41~5:51)。 本日はブハラからサマルカンドに移動し、途中、アイダール湖に行き、チューリップなどを見ます。 ホテルを出ると、ちょうど現地集合で参加した三人のお客さんも朝の散歩に出かけるところで、一緒に行くことになりました。石畳の街角を歩くと、いかにも中央アジアという雰囲気の建物が並んでいます(写真下)。 こういう中央アジアの市場は前から私のあこがれでした。理由は、『異邦人』(作詞・作曲・唄 久保田早紀、1979年)という四十年近くも前に流行った歌です。その2番目の歌詞の中に次のような一節があります。 当時この歌を聴きながら、私はシルクロードにあるバザールの雑踏の中を歩き、喧騒や臭いまでも感じるなど、すっかりその気になっていたのです(笑)。そして今、実際に石づくりの建物の間の石ただみの道を市場に向かって私は歩いている! では、恒例の夢幻旅行社のオプショナル・ツアー「シルクロードの朝 バザールの異邦人」を開催します。 ・・・あら、でも、何か変だよな。私は♪市場に行く人の波に身体を預け♪るはずなのに、どこに人の波があるのだ?ひづめの音の代わりに車が通りすぎるのはしかたないとしても、祈りの声もざわめきもありません。 『地球の歩き方』の地図にはホテルのすぐ近くにタキと呼ばれるバザールが二カ所あるはずなのに、そこに行っても、閑散としてバザールどころか、人もいません。 変なのはバザールと人がいないことだけではありません。最初は中央アジアらしい建物に酔っていたのに、途中で私は風景に違和感を覚え始めました。街並みがあまりにきれいに整備されている。これはもしかして計画的に作られた商業施設ではあるまいか。人もいないし、店も開いていないが、どこか観光客向けに作られたような印象です。観光客向けの場所なら、早朝にバザールもないのは当たり前です。 観光地らしい窓のきれいな公衆トイレまであります(写真下)。私の頭の中で回っていた『異邦人』の擦り切れたレコードは止まってしまいました(笑)。 ここが観光地である証拠が写真下で、路上でオバサンが店を広げており、売っている品物を見ればわかるように一般市民相手の商売ではなく、観光客を狙ったお土産屋です。私は朝早く来たから店は一つしかなかったが、おそらく日中はこの通りに露天が並ぶのでしょう。 私が路上に並べられた品物よりも、それを運んで来た二輪車に興味を持ったので、オバサンはその中身に興味を持ったのかと誤解して、二輪車に乗っていた別なお土産を広げて見せました(写真下)。残念ながら、私たちの購買をそそるような品物はありませんでした。 通りを進むと、青い丸い屋根のモスクらしい建物があります。写真下の手前のドームのある建物がミル・アラブ・メドレセ(Mir-i-Arab
Madrasa)という神学校、向こうドームが、カラーン・モスク(Kalyan
Mosque)です。 二つの建物の間にある塔がカラーン・ミナレット(Kalyan
minaret)で、いずれも観光ガイドに載っているほど有名ですので、私は紹介しません。奴隷を三千人も売って、人の血と汗と悲しみを土台にして作った壮麗な建物(『地球の歩き方』83ページ)なんかより、デートしている若い二人を見ているほうが楽しい(写真下右)。 神学校の建物には立派な青いドームが二つついているのだが、良く見ると丸屋根の上に草が生えている(写真下右)。神をも畏れぬ罰当たりな植物が何なのか興味があるが、登るわけにもいきません(笑)。 モスクの入り口の扉が開いているようです。他のお客さんが中に入っていくので、私は恐る恐る後に付いて行きました。女性三人は準備が良く、イスラムの習慣に従い、スカーフをかぶって入ります。 建物の中を横切ると(写真下左)、長方形に建物に囲まれた広々とした中庭があります(写真下右)。 モスクには良くあるパターンです。真ん中に樹木が植えてあるのがおもしろい。 しかし、なんか奇妙。私たち以外は誰もいない。今は朝六時半頃ですから、私はてっきりイスラム教徒の朝の祈りが行われており、異教徒の我々は入れないのではないかと思っていました。ところが、門が開いているだけでなく、人が誰もいない。いるのは地味なハトくらいです(写真下)。 朝、アザーンという礼拝の呼びかけの声が街中に流れるのはイスラム教の国では良くあることです。夜明けの礼拝時間なので、旅行者にはあまりうれしくない目覚まし時計です。しかし、私はホテルでぐっすり眠っていたせいか、聞いていません。夜明けの礼拝の時間は過ぎているのはわかるが、それにしても人が誰もいないというのはおかしくないか。 入り口とは反対側の建物の奥に行くと、そこに靴が何足かあり、部屋の中に人がいるらしい(写真下)。邪魔しては悪いので、立ち入りませんでした。靴の数から推測して、十人もいません。 誰もいないので、じっくりと建物を拝見しましょう。 イスラム建築は形だけでなく、模様がきれいなことが多いが、ここのはそれほどでもありません。正直なところ、建物の大きさのわりには装飾の少ないのでがっかりしました。 建物の反対側に通り抜けられないかと探したのだが、行き止まりですから、引き返しましょう。 朝食が七時からで、あと10分ほどしかありません。私は庶民の街を見るために、来た道ではなく別な道を帰りたいので、ここで二手に分かれることにしました。 見てください(写真上下)。これですよ、これ。先ほどまでの観光客用に整備されたきれいな道路ではなく、道路はデコボコで真っ直ぐでなく、いかにも庶民の住んでいるという雰囲気です。古くて不揃いだが、清潔です。 葡萄棚のある石づくりの古い家や(写真下右)、出勤途中の人々のざわめきを聞くと(写真下左)、やっと中央アジアに来たという雰囲気です。 七時からホテルのレストランで朝食です。それほど遅れることもなく到着しました。写真下の食材の置かれた台の上に素焼きに彩色された人形が置いてあります。ウズベキスタンでは良く売られている人形です。厳格なイスラム教の国では偶像を禁止しているので、こういった人形さえも嫌います。つまり、この国のイスラム教はそんなに堅苦しくないことを意味します。 小遣いはたった12ドルですんだ 八時頃にホテルを出発。大型バスなので余裕で乗れます(写真下)。私はいつものように最後部の席を目指しましたが、窓の位置が悪いので、一つ前の席を横に四つ占領しました。 写真下左の左側の女性が現地ガイドのターニアさんです。ウズベキスタン国籍で、人種的にはロシア人とウクライナ人のハーフです。非常に日本語が達者で、日本語での当意即妙の反応には驚かされました。日本に来た時には吉本に誘われたくらいで、これまた彼女の才能でしょう。植物にもかなり詳しく、学名がその場でスラスラと出てくるほどです。ターニアさんはネット上の複数の旅行記に登場し、日本人からは好評を得ています。 写真下の白髪の男性がウズベキスタンの植物ガイドで、イワン先生です。 ターニアさんがもう一つすごかったのは、客にお金を使わせないことです。私のこれまでの旅行では逆のケースは見ましたが、使わせないようにしたのは彼女が初めてです。私は今回の旅行での小遣いは12ドルしか使いませんでした。これまでの旅行で最小です。 お客さんは全員がとりあえず、ターニアさんに10ドルを現地通貨のスムに換金してもらいました(写真下)。10ドル札1枚でお札が37枚にもなって金持ちになった感じです(笑)。 10ドル=37,000スム 一方、2017年4月18日の為替相場は、 1ドル=3,675スム えっ?ターニアさんは切り上げて、多めに我々に払っていることになる!実際には換金した時期が違えば、損はしていないだろうが、それにしても、こちらが得をしたような換金はこれまでの旅行でも初めてです。つまり、ターニアさんの旅行会社は良心的な換金をしていることになります。 私がこれまで世界各国の通貨に換金した範囲では、最も公式にボッているのは日本です。換金レートと手数料が首をかしげたくなるほど高い。この意味では、ビットコインのような換金を必要としないネット通貨が安定的に使えるようになってほしい。 ブハラの朝の風景 街の中はちょうど登校時間らしく、子供を連れた人たちがたくさんいます(写真下)。親などが子供の学校の送り迎えをするのは日本以外ではそれほど珍しい光景ではありません。残念ながら、日本でもこのようにするしかなくなりそうです。 街中でも丸いドームが現代の建築物にも使われているので(写真下左)、風景は中央アジアのイスラムの国の風景です。 街の中を番号のついた中型のバスが走っています(写真下)。どうやら、これが市民の足らしい。実は、後日、私たちも乗ることになりました。 走っているのは幹線道路なので、郊外に出ても道路は良い。日本と違い、平原が広がっているので、道路は作りやすいでしょう。 郊外で目につくのはスカーフをした女性たちの民族衣装です(写真下)。 一方で、若い女性たちは民族衣装を着ていない(写真下左)。他の国でもよくみられる傾向です。 日本ではまず見かけない乗り物の馬車がここでは活躍しています(写真下)。大半がロバで、まれに馬がいます。どこの国でも馬は元気で楽しそうに、ロバは頭を下げて、だるそうに仕方なしに歩いているように見えます(笑)。 ウズベキスタンは農業が盛んで、農産物の輸出国です。ソ連邦時代は綿花栽培を割り当てられて、綿花の収穫は大変だったそうです。しかし、今では綿花よりも収益の良い商品作物を自由に作っているようです。道路の両側の農地ではリンゴ、ブドウ、小麦などが見られました(写真下)。 驚いたのが写真下で、田んぼです。乾いたイメージのあるこの国で稲作が行われているとは知りませんでした。 最初の花の観察 東に進むにつれて乾燥地帯が増えて、放牧されている羊が目に付きます。 乾いた沙漠のような花があるようには見えない場所で、本日、最初の花の観察です。 それなりに花はあるが、どれも小さい。 写真上 Roemeria refracta 写真下は紫色のケシです。ここの環境が厳しいので背が低いが50cmくらいまで成長し、南西欧州、南西アジア、北アフリカなどに分布します。 写真上 Roemeria hybrid なかなか可愛らしいケシで、チベットの青いケシの中にもちょうどこんな色のケシがあります。分布からいくと、暑さや乾燥に適応した植物のようです。日本にも来てくれないかな。 花はどれも小さいので、気が付かず通過してしまい、また地面にはいつくばって撮るしかない。 写真下で花がたくさん咲いている絶好の被写体の株があったので、撮る順番を待っていたら、植物学者のイワン先生が鑑定のために採取してしまいました。順番待ちの私ともう一人のお客さんは顔を見合わせて苦笑い。 写真上 Arnebia coerulea 写真下はフタナミソウ(Scorzonera)の仲間で、タンポポに近い種類です。 写真下の花は欧州、アジア、アフリカ、チリなどの南米にまで広がっているようです。こんな環境でも生き延びているのだから、適応力が高いようだ。 写真上 Strigosella Africana 縞模様がきれいなトカゲ君がいます(写真下)。名前を探してみると、Aspidoscelis veloxと似ているが、それはアメリカの固有種だというから、中央アジアの砂漠にいるはずがない。 工業都市のナヴォイ 花の観察を終えて、沙漠のような広々とした中を走って行くと、遺跡のような建物が見えました(写真下左)。シルクロードの隊商を泊める隊商宿で、ラバティ・マリクのキャラバン・サライの遺跡です。 下図の黄色い線はシルクロードです。昨日泊まったブハラ(Buchara)とこれから行くサマルカンド(Samarkand)と、その間を結ぶ道がシルクロードですから、私たちが今走っている道そのものです。そう考えると、ただのアスファルトのありふれた道が妙にエキゾチックに見える(笑)。 (Wikipediaから転載) シルクロードの遺跡に感動していると、現代的な飛行場(写真下左)や巨大な煙突(写真下右)が見えて来ました。ここはナヴォイ州の州都であるナヴォイ(Navoiy)で、このあたりはナヴォイ自由産業経済区域です。ナヴォイ国際空港(Navoiy
International Airport)からは韓国企業の航空貨物が運ばれています。 ターニアさんは、ナヴォイ(Navoiy)は工業地帯なので、お金にはなるが空気が悪いので住みたくないと言います。しかし、そう説明されなければ、空気の悪さは感じません。写真上右の煙突からは煙が上がっているが、途中で消えていますから、あれは煙ではなく蒸気でしょう。ターニアさんは、ナヴォイ州はウランや金など鉱物資源を生産しているので、汚染を心配しているのでしょう。ウズベキスタンは農産物だけでなく、地下資源も豊かです。 道はナヴォイの中心部には入らず、かすめように通過しているので、工業都市というような緊張感はなく、道路の両側はいたってのんびりした雰囲気です(写真上下)。 トイレ休憩 ナヴォイの街中にあるレストランでトイレ休憩です(写真下)。500スム(約15円)の有料トイレで、大した金額ではないので、どのようなものか、入ってみました。男女共用で、トイレそのものは和式で特に良いも悪いもありません。水洗トイレなのに紙が流せないのが、日本人には違和感がある。これは昨夜泊まったホテルも同じでした。 ここで嫌な光景を見ました。頭部と右足をロープで短く結ばれた牛が引っ張られていく(写真下)。当然、牛はうまく歩くこともできず、ヨタヨタと引きずられるように連れていかれました。何のためにあんなひどいことをするのか。日本でもペットが病気になったから殺処分してくれと頼みにくる飼い主がいると獣医さんがぼやいていました。この飼い主は自分が年取って病気になったら殺処分されてもいいんでしょうか。生き物にはあまりひどいことをしないほうが良い。 この街を出て間もなく検問所があります(写真下)。州境では良く検問所がありますが、私たちはナヴォイ州を出ていません。どうやらナヴォイを出て次の街であるヌラタとの境の検問所のようです。 郊外にも団地らしい建物が見えます(写真下左)。家と塀がくっついていて、外から勝手に敷地にはいることができない。これはこの国のかなりの地域で見られる建て方です。写真下右はナンというパンを焼く釜のようです。あの釜の内側に練った小麦粉を薄く貼り付けると釜の熱でナンが焼けます。 街を出ると草の生えた沙漠のような風景が広がっています。 ミニチュアのチューリップ 本日最初の花の観察で、チューリップを探して斜面を登ります(11:03)。小川が流れて緑はあるものの、大きな樹木がないのをみてもわかるように斜面は乾いており、チューリップに限らず、植物にとって良い環境ではありません。 目的のチューリップはなかなか見つからず、あきらめかけた頃にイワン先生がついに発見しました。斜面にわずか数本が花を咲かせています。花はちょっと痛んでいます。 写真上 Tulipa korolkovii 写真下左の人間や、写真下右の直径1cmのボールペンと比較してもわかるように、私たちが普段見慣れているチューリップと比較すると、ミニチュアと言ってもいいくらい小さい。これはこの種類のチューリップが小型なのではなく、この環境が厳しいから小さくなったのでしょう。思わず「がんばれよ」と言いたくなるくらい、岩だらけのわずかな乾いた土の上に生えています。 遠くから見て「おっ、チューリップか」と喜び勇んで近づいてみると、たいていケシです(写真下)。 写真上 Roemeria refracta 写真下は見てのとおりで、日本のキバナノアマナ(Gagea)の仲間です。キバナノアマナは日本では中部以南に住んでいる人たちにはあまり馴染みがないかもしれません。東北地方では珍しくなく、私の自宅の土手に昔から生えています。 写真上 Gagea gageoides 写真下は同じキバナノアマナの仲間で、花が白い。 写真上 Gagea ova 写真だけみると、上と下は似ていますが、写真下はナデシコの仲間です。 写真上 Arenaria serpillifolia 写真下はオランダフウロで、地中海の原産で世界中に広がっている花です。北アメリカでは1700年代に入り込んで広がり、侵略的な外来種とみなされる一方、蜂蜜の源にもなっています。 写真上 Erodium cicutarium 写真下のように写ると赤いシロツメクサのよう花は実際はネギ(Allium)の仲間です。 アーモンドの仲間が花を咲かせています(写真下)。小川の近くだけで、山の上のほうで見かけません。 写真上 Amygdalus spinossisima 写真下はオオイヌノフグリで、大きさや花の雰囲気は日本のとそっくりだが、青が強く、しかも茎が立ち上がっています。 写真上 Veronica arguteserrata 毛玉のような花があります(写真下)。たぶん上から突き出た角から花がこれから開くのでしょう。ここでも数は少なく、今回の旅行でもここでしか見かけませんでした。 写真下のキンポウゲは日本でいえばタガラシです。 写真上 Ranunculus laetus 写真下のSiberian
lilyは名前にシベリアが入っているが、分布はシベリアというよりも中央アジアから南西アジア、そして中東のシナイ半島や中国の新彊ウルグル自治区などに生えています。 花の形はカンゾウやキスゲなのに、色は似ても似つかない紫です。ゴツゴツした黒い岩山に奇妙に似合っている。 写真上 Ixiolirion tataricum 皆さんがバスのほうに戻り始めましたので、そろそろ降りましょう。 古代からの街 ヌラタ峠(Nurota)を通過して山を下りると、再び広々とした平原が広がります(写真下右)。 やがて平原の中にヌラタの街が見えてきました(写真下)。ここは紀元前三世紀に文献に出てくるという古い街です。周囲には昔作られたカリーズという大規模な灌漑用水路があり、今でも利用されています。写真下右の水はそこから引いた水かもしれません。 人口は三万人にしては桁を間違えているのではないかと思われるほど閑散としていて、私たちが通過した幹線道路には店もありません。 写真下左の建物は、ナヴォイの郊外で見た建物と外見がそっくりです。ここも建物と塀がくっついおり、扉以外からは中に入れないようになっています。 沙漠のチューリップ チューリップの群落を見つけてバスを停めました。先ほどの山の上と違い、ここはたくさんあり、背丈も普通のチューリップの大きさです。 私はチューリップは苦手でした。理由は小学校の花壇です。私の小学校には各クラスごとに花壇があり、生徒たちが花を植えて育てていました。定番は丈夫なチューリップで、当然のことながら、それを一列にきれいに並べて植えてある。 写真上 Tulipa lehmanniana チューリップが一列にきれいに直線に並んでいるのが、私は死ぬほど嫌いだった(笑)。私のこの生理的な嫌悪感は、学校で当たり前のこととして行われる一列に並ぶとか、号令一つで右習いをするなど、体育会系の集団行動や儀礼的な儀式が大嫌いだったことが理由です。年を取って偏屈になっているから、いよいよ嫌いです(笑)。 チューリップには何の罪もなかったのに、私は未だにチューリップを植えたことがありません。こういう私がチューリップを見直すことになったのはあるテレビ番組を見た時でした。イギリスの王族が経営する農園の庭に生えているチューリップを見て、私は初めて好印象を持ちました。私が見た小学校の一直線の不気味な光景と違い、チューリップは敷地のあちらこちら自由気ままに咲いている。どうやら私のチューリップ嫌いは花そのものが理由ではないとこの時初めて気が付きました(笑)。 ここにはオレンジだけでなく、黄色いチューリップもあります。ここでは数がやや少ないが、黄色のほうが多い場所もあります。 葉っぱが波打って捻れていると、乾燥地帯の植物だとわかる。 ウズベキスタンが発行したこのTulipa lehmannianaを描いた切手は、黄色いほうを採用しています(写真下中)。 さらにおもしろいのが、オレンジと黄色の中間色のチューリップもあります。 オレンジと黄色の色むらがあり、これが微妙な個体差を生み出しています。後日、もっとすごいのをたくさん見ました。 チューリップ以外にもいくつか花が咲いています。いずれも数は少ない。 写真上 Hypecoum parviflorum 砂漠のアヤメです(写真下)。少ない数の中で花によって花弁の色が微妙に違う。 カメがいます(写真下)。ヨツユビリクガメで、アフガニスタンやイラン、東は中国の新彊ウイグル自治区などに広く分布しています。日本でもペットショップで売られています。 動いてくれないかと待ったのだが、ヤブの中に身体を突っ込んだまま、動こうとしません。靴のつま先と比較してもわかるように、そんなに大きくはありません(写真下左)。 写真上下 Agrionemys horsfieldii タシケントではカメを育てて野生に返す運動があるそうです。絶滅危惧ではないが、自然を回復させようという試みです。日本もイシガメなどの在来種がアカミミガメなどの外来種に負けているのを放置せずに、在来種の増殖や外来種の駆逐にもう少し力を入れたほうが良い。 黄色いセリの大群落 バスの中から見てチューリップ以上に驚いた花が写真下です。 写真上下 Ferula foetida 花がきれいというよりもドンと構えた感じで迫力がある。セリの仲間です。 写真下は1メートルくらいの高さですが、これよりも高いのもたくさんあります。日本のセリはどちらかというと湿気のある所で成長するのに、こんな乾燥した所でよくここまで大きくなれるものだ。 ツボミもまるで包装紙からはみ出したような雰囲気でおもしろい(写真下右)。これは生で食べられるとネットにありました。 この花のすごい光景が写真下です。はるか彼方まで花が咲いていて、終わりが見えない。群落ではなく、大群落です。 ここからはいずれもバスの中から撮ったもので、おそらく数キロは道の両側にこの光景が続いています。 葉と若い芽は野菜として食べられるそうです。ただし、ニンニクのような強烈な臭いがあり、熱を加えると玉ねぎのような臭いに変わるというから、好みが分かれそうです。見た目にはあまりおいしそうには見えない(笑)。 薬効も古くから広く知られ、特にインドの伝統医学であるアーユルヴェーダでは重要な役割をしています。専らイランとアフガニスタンで栽培され、世界中に輸出されています。インドだけでなく、中国、マレーシア、サウジアラビアなどでも薬剤として用いられています。鎮静剤、消化剤、喘息薬、風邪薬から媚薬まで幅広く用いられているようです。 根茎や根から採取できる樹脂が伝統医学の薬剤としてもちいられるだけでなく、調味料としても使うというからおもしろい。アマゾンなどのネットで「アサフェティーダ(Asafetida)」「アジョワンシード(Ajwain
Seeds)」などの名前で通販されています。 写真下の横筋は何なのでしょう?耕した跡?ただこの前後数キロの範囲には畑は見当たりません。 黄色いセリの花に圧倒されていると、右手にアイダール湖(Aydal
Kol)が見えてきました(写真下)。 ラクダが一頭だけいます(写真下)。野生はおらず、家畜だそうです。フタコブラクダのように見えるが、コブがずいぶん痩せている。湖がそばにあるのだから、ラクダにとっては水に困るような環境ではないのに、どうしてだろう?家畜なのに一頭だけポツンといるというのもおかしい。 湖とラクダが見えた所でトイレ休憩を取り、ここで道を引き返します(写真下)。 サマルカンドへ ナヴォイまで引き返し、同じトイレに寄り、ここからサマルカンドまで160km、約三時間かかります。 道の両側は先ほどまでの沙漠のような光景と違い、広々とした畑が広がっています。 車で良く目につくのが古い車です(写真下)。目測で言うなら、道を走る2割がこの古い車で、珍しくない。写真下右の赤い車がソ連時代、アフトヴァース社が作ったラーダ2101です。値段は安く、構造が簡単で、壊れてもすぐに直せると旧ソ連圏ではまだ多く使われています。 ソ連製は性能が悪いというイメージだが、でも、今でも現役で宇宙飛行士を乗せているのは旧ソ連時代から作られたロケットです。この点では、ソ連はアメリカに宇宙開発では勝った。こういう古い車を見ると、日本人はバカにしがちですが、話はそんなに簡単ではなく、最先端の物が最良だとは限らない、とソ連製のように古い私が言う(笑)。 もちろん、馬車やトラクターも走っています(写真下)。 道の脇に屋台を出しているのを時々見かけます(写真下)。ペットボトルの水物が多いのはいかにも乾燥しているこの国らしい。 ここでは子供たちも女の子は民族衣装をつけているのが目につきます。 朝に見たブハラの街中よりも、若い女性でも民族衣装の人たちが多いように見えます。 夕暮れになり、放牧から牛を連れて帰る光景は珍しくありません(写真下)。連れている牛が一頭や二頭など多くないから、大規模な牧畜ではなく、自家消費する牛乳を手に入れるための牛なのでしょう。 サマルカンド到着 サマルカンドに到着する頃には陽も沈んでしまいました(写真下)。 すっかり薄暗くなってから、ホテルAsia
Samarkandに到着(19:40)。ブハラと同じ系列のホテルです(写真下)。 ホテルは外見はイルミネーションで派手だが、ロビーはブハラのような装飾はありません(写真上下)。 到着したのが遅かったので、部屋に行く前にホテルのロビーの奥にあるレストランで夕食です(写真上右)。 ビールは9000スム(約300円)、ワインは10000スム(330円)というのだから、安い。 私の部屋は、ロビーから外に出て、まっすぐ中庭を突っ切り(写真下左)、緑色のアーケード(写真下右)を通り抜けた奥の建物の二階のさらに奥です。暗かったので、この部屋までの道を告げられた時、こんなふうに復唱しながら、行きました(笑)。 写真下が私の部屋です。部屋としては特に良いも悪いもありません。 ベッドの一つに布団がない!またベッドが古いらしく、真ん中が沈んでいて寝づらい。ただ、それ以外は大きな問題もないので、このホテルへの評価は4.0とします。 朝早く、また夕飯が遅かったこともあり、私はカメラのバッテリーの充電を除き、ほとんど何もせずにとにかく早く寝るようにしました。湯船につかるとそのまま眠ってしまいそうなほど睡眠不足が重なっていたからです。私は睡眠不足だとすぐにバッテリーが切れてしまうので要注意です。 |