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11日目 19981127()

ルンビニー ティラウラコット ルンビニー スノウリ

 

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6:00 起床。ホテルのレストランで食事(Rs640)

8:09 ホテルで手配してもらったジープ型のタクシーで、最初の訪問地ルンビニーに向けて出発。

8:14 ルンビニーにあっという間に到着。むしろ、そこから歩く距離がけっこうあります(写真下左)

 

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ルンビニーはなかなかたどりつけない理由

ルンビニーはお釈迦様が生まれた場所です。阿含経の一つ「スッタニパータ」(『ブッダのことば』中村元)などにも出てきますから、間違いないのでしょう。

二十年前に来たときも、公園のような遺跡になっていました。近年、ここをさらに大規模な遺跡として整地されたため、お釈迦様が生まれた場所のそばまで車で行くことができなくなったようです。計画図を見ると、マーヤー堂やアショーカ王の石柱のある遺跡を、直径1kmほどの円形の中に納め、さらにその周囲に寺院など様々な配置する予定のようです(写真上右)。建築家の丹下健三氏の作ったこの公園計画化のために、我々はマーヤー堂に到着するのに1kmほど歩かなければならないという訳です。

 

 ルンビニーの見所は、マーヤー堂(マーヤーデヴィー寺院)とアショーカ王の石柱と沐浴池が集まっている一角です。ここがお釈迦様が生まれたルンビニーだという証拠がアショーカ王の石柱です(写真下)。発見されたのが1895年というのですから、まだ百年しかたっていないのです。

 

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 石柱の前に沐浴池があり、菩提樹(たぶん)の巨木があります。池に影を映してなかなかの風情です。写真下右は二十年前の沐浴池の様子で、池の周囲が改修されているのと、木が太く大きくなったのがわかります。

 

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マーヤー夫人は菩提樹でなく、無憂樹(Asoka tree)に寄りかかった時に出産したとされています。ここを訪れた法顕も玄奘三蔵もここに無憂樹があったと記録しています。そこで日本人がここに無憂樹を植えようと努力したが、最初の頃は枯れてしまったといいます。どうやら、このあたりの気候が昔と違い、雨が少なくなっているようです。

 

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 昔は、マーヤー堂はアショーカ王の石柱の隣にある、白い小さな建物でした。下の写真二枚は二十年前に撮ったマーヤー堂の全景(写真下左)と、その入口(写真下右)です。この奥にレリーフが祭ってあるだけですから、これが建物の全景だと言ってもかまいません。

 

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 しかし、現在は、マーヤー堂のあった位置はバラックのおおいがかけられ(写真下左)、中では発掘と全面的な改修が行われています(写真下)

 

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 一般の観光客は中には入れてもらえません。この場所こそが、お釈迦様が生まれた場所だと、ここの埋もれるまでの千年くらいまでの仏教徒たちは信じていたことになります。

 

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 昔のマーヤー堂の中には、マーヤー夫人の像などが置いてあるだけでした。その像は、少し離れた所の建物(写真下左)の中に祭られています。

 

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 一番大きい像(写真下左)はマーヤー夫人が無憂樹に寄りかかった時に出産したことを表現した像ですが、無残にも顔が削られています。これをしたのはイスラム教徒でしょうから、逆に言えば、このレリーフはイスラム教徒が進入する以前のものである可能性があることになります。

写真下右は二十年前の同じレリーフです。真っ赤なのは写真の劣化ではなく、巡礼者はこうやって赤い染料を振りかけるのが供養のようです。何の像なのかわからないほど塗りつけてあり、著しく美観を損ねますが、顔が削り取られたのが見えなくて、かえっていいかもしれません。

 

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 皆さん上の写真を比較して、両者に大きな違いがあること気が付いたでしょうか。レリーフの左上の部分が欠けています。たぶん、無憂樹の枝を表した部分でしょう。元々、別な部品として組み合わされていたのが、それとも外す時に壊してしまったのか、わかりません。周囲には割れたレリーフが他にもありましたが、どれがそれなのかわかりませんでした(写真下)

 

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同じような図柄の下左のレリーフは、ミャンマー産の大理石で造られた新しいもののようです。つまり、上の削り取られた図像を復元して奉納したのでしょう。これも二十年前は真っ赤でした(写真下右)。二十年前はすすけていたので、黒い石なのかと思っていたら、どうやら白いらしい()

 

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 写真下左は「天上天下唯我独尊」と宣言したというお釈迦様の像です。もちろん、金色なのは熱心なミャンマーやタイあたりの仏教徒が金箔を張り付けたのでしょう。だから、二十年前のこの釈迦像は金ピカではありません(写真下右)

 この二枚の写真を見比べて、またしてもアレッと思いませんか。二十年前の写真は、少々見づらいのはご勘弁いただくとして、二体の同じポーズの釈迦像が写っています。では右側の釈迦像はどこに行ったのでしょう?左側の写真を見ると、右側に両手が取れて、台座からも外れてしまった像が壁に立てかけてあります。二十年前は右手をあげて、立派に天上天下をしていたのに、誰か壊したのでしょう。可哀想に、すっかり主役を奪われています。仏跡巡礼関係の本を見ると、1987年にはすでに壊れています。

 

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 近くにはストゥーパらしい盛土がみられます(写真下左)。原型を留めていないだけでなく、頂上には塔 (Mahendra pillar) が立っているなど、なんとも奇妙です。この周囲にはいくつかストゥーパがあるそうですが、どれも原型を留めていません。また、どういう由来のストゥーパなのかもよくわからないようです。というのは、百年前に発見された後、今日の考古学からいったらメチャクチャな手法で発掘をしたり、周囲の住民が遺跡のレンガを盗んだりと、取り返しのつかない人為的な破壊をしてしまったのです。

 

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 二十年前の閑散とした様子と違い、参拝者も多く、寄付も多く集まるでしょうから、今後、公園としての整備と考古学的な調査がもっと進むことを期待しましょう。 

 

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9:30 ルンビニーを出発して、ネパール側にあるティラウラコットなどの遺跡に向かいました。

 

 

 

 

コンクリートで固めてあるアショーカ王の石柱

 ホコリだらけの道を走り、タウリハワーから、よく区画整理された田んぼの農道をさらに走ります(写真下左)。よく灌漑整備されているなあと感心するくらい、どこまでも田んぼが続きます。こういう地方にシャカ族が暮らしていたとすれば、作物が十分に取れて豊かだったのがわかります。実際、経典でもお釈迦様は、シャカ族が豊かであることを述べています。・・・それはいいのだが、こんな所に本当に遺跡があるのかと思った頃、ポツンとした遺跡らしい建物が見えてきました(写真下右)

 

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10:45 ニグリハワーに到着。建物の中にはアショーカ王の石柱があり、建物の前に沼が広がっており、遺跡はこれだけのようです(写真下左)

 

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 看板を読むと、Kanakamuni Buddhaの生まれた所だとあります(写真上右)。これは過去七仏と呼ばれるブッダの一人です。お釈迦様よりもずっと昔、6人の悟りを開いた仏たちがいたという話が元になっています。阿含経でもお釈迦様は過去に悟りを開いた仏たちがいたことを述べています。もちろん、歴史上、存在が確認されているのはお釈迦様一人です。

 

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 建物といっても、アショーカ王の石柱を風雨から守る程度です。これは今から2200年ほど前の石柱ですから、日本だったら博物館入りの代物が、ゴロンと置いたままになっています。しかも、柱をコンクリートで固めてあり、上左の写真など見ると、公園の東屋のベンチかと思うほどです。考古学の素人が見ても、荒っぽいというか、粗雑というか、ひどい取り扱いです。

 

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 遺跡の周囲に鉄条網がはってありますから、どうやら目の前の池は遺跡とはまったく関係なく、ただの農業用のため池のようです(写真下)。ハスが咲いたらきれいだろうから、公園化すればいいような気がしますが、訪れる人がいないのでしょう。

 

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 アショーカ王の石柱のあまりの粗雑な扱いに溜息をつきながら、走り出した車から後を振り返ると、ただっ広い田んぼの中に、遺跡が見えました(写真下)

 

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シャカ族の都か

11:00 ティラウラコットに到着(写真下)。ここはシャカ族の都・カピラヴァットウだと言われています。入り口にある看板には(写真下左)には、ここがカピラヴァットウだと特定されていると書いています。だが、残念ながら、ここがカピラヴァットウだとは決定されていません。明日、訪れるピプラワーがカピラヴァットウとして有力だからです。カピラヴァットウをティラウラコットだというネパール側と、ピプラワーだというインド側で、学問的というよりも、政治的な争いが続いています。

 

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 遺跡内を見ると、ここがシャカ族の都かどうかは別としてと、南北に約500m、東西に約400mの城壁をそなえていることからも、都市であったことは間違いないように見えます。阿含経に出てくるカピラヴァットウの条件をほぼ満たしています。もう一つの候補地のピプラワーはこの点で今ひとつなのです。

 

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 おもしろいことに、ここにはヒンドゥー教の堂があります(写真下)。学者たちは指摘していないようですが、これはここが古くから仏教の聖地であったことを示しているかもしれません。仏教が滅んだ後、その聖地にヒンドゥー教が入り、寺院などを建てることは珍しくありません。ここが古代、仏教の聖地であったとすれば、ルンビニーの近辺で城壁のような構造を持つ仏教遺跡はカピラヴァットウである可能性はかなり高くなります。

 

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 ここがカピラヴァットウかどうかの議論はさておき、遺跡内は木陰の池もあり(写真下左)、サルが遊ぶ、のんびりした雰囲気です。こちらにとってありがたいのは観光客がまったくいないことです。ルンビニーまでは日本人の観光客も来るが、ここまで来る人は少ないのでしょう。

 

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遺跡の西門から入り、遺跡を横断して、東門から出て、北にある双子のストゥーパ(twin stupas)に行きました(写真下)。ストゥーパと言っても、丸い台座があるだけですから、やはり破壊されたのでしょう。お釈迦様の両親のストゥーパだという説もあるようですが、案内板には作られた時期が書いてあるだけで、何のストゥーパかは書いてありません。

 

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 遺跡のすぐ西側には大きな河が流れているようです(写真下)。昔から流れていたとすれば、ここにこれだけ大きな都市ができたのも納得できます。

 

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 遺跡よりも、周囲の農村風景がきれいです。周囲は菜の花のようなカラシ菜の花が咲いています。こういう農村風景がお釈迦様の時代にもあり、豊かだったのでしょう。奴隷にも米と肉を食べさせていたと語る場面が出てきます。

 

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 にぎやかな「お共」を引き連れて(写真下左)、遺跡の中を来た道を通り、西の門の入り口に戻りました。

ガイドとは別な人がガイド料金を払うように要求します。彼は勝手についてきただけで、こちらはガイドとして頼んだ覚えもなければ、彼に案内してもらわなくても、地図を持っているので、困りません。しかし、彼自身は金を要求しなかったことや、他にまったく観光客がいないのを見て、払ってあげました。

 

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12:15 遺跡の近くにある博物館に行きました(写真下左)。たしか、火事で焼けて、建て直したとガイドブックに書いてありました。素人にはあまり価値がわからず、内容はあまり大したものはありません。玄関の庭に捨てられたようにおいてあるレリーフの一つがまるで恐竜のようにみえるものがありました(写真下右)

 

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ゴーティハワーとクダン

13:01 田んぼの中の工事中の悪路を走り、ゴーティハワー(Gotihawa)の遺跡に到着しました。村のはずれにあり、敷地はそれなりに広いが、あるのは折れたアショーカ王の石柱がなかば埋もれた形で出ているだけです(写真下)。午前中行ったニグリハワーのように、石柱がベンチのようになっているよりはまだましです。

 

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 看板には、Krakuchhanda Buddhaが生まれた場所とあります。ニグリハワーと同じで、過去七仏の一人、Krakhuccandaのことではないかと思われます。過去の六人の仏とは歴史上の人物としては記録にないが、当時の人たちはこんなふうにごく身近な存在とみなしていたようです。

 

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 遺跡は鉄条網に囲まれ(写真下左)、入り口は普段は閉じられ、村人も勝手に入ることはできないようです(写真下右)。看板も新しく、遺跡が整備されたのは最近のようです。

 

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 ここもまた遺跡の周囲には広々とした農村が広がり、アショーカ王には悪いが、石柱よりもそちらのほうが私の興味を引きます。畑の植えられているのはマメの仲間のようでした。

 

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13:40 クダン(Kudan)の遺跡に到着。ここは阿含経ではNigrodharamaと呼ばれ、クダンとは近くの村の名前です。お釈迦様の父親のスッドダーナが精舎として寄贈したとあります。お釈迦様の義母であり、育ての親でもあるマハーパジャーパティ(Mahāpajāpati Gotamī)が出家を申し出た所だとされています。

 

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ここの中心となるのがストゥーパらしい遺跡です(写真上左)。ところが、その上には、なんとヒンドゥー教のシヴァのリンガらしいものがあります(写真上右)。つまり、ここも仏教遺跡として滅んだ後、長年、ヒンドゥー教の聖地となっていたのでしょう。信仰熱心な仏教徒にとって、ストゥーパの頂上に異教のシンボルが鎮座しているのは不愉快かもしれませんが、ある意味で遺跡の保護にもなったのですから、必ずしも悪いこととはいえません。

 

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 土に埋もれてはいるものの、脇を見ると、人工物であるのがわかります(写真上左)

この大きなストゥーパの他にも、すぐ隣にも何かの遺跡が(写真下左)、また別なストゥーパと思われるような盛土と塔もあります(写真下右)。これからの発掘が待たれるようです。

 

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 これで本日の遺跡巡りは終了です。

 

15:00 時間どおりホテル到着。

今日一日案内してくれたタクシーの運転手に、国境に行くために隊長が交渉すると、当初Rs300で同意しました。その後、Rs350を要求して、さらにホテルのオーナーがRs400などと言い出したので、断固拒絶。前日、国境での言い値がRs300で、我々はそれをRs250にねぎってきたのですから、相場はせいぜいRs300です。ホテルのオーナーは自分の取り分を上乗せしたのです。彼のたびたびの嘘に頭に来て、交渉を決裂して、別なタクシーを探しました。

 

16:00 国境の街ナウタンワに到着。

16:40 イミグレーションを通過して、リクシャーで今日の宿泊所であるツーリスト・バンガローに行きました。

満室で、部屋の一つが夜9時にならないと開かないという。9時になっても連絡がないので、受付に行くと、すでに部屋は空いていました。それなら呼びに来ればいいのに、と思わず考えた後で、「おれは日本人だなあ」と反省しました()。日本なら「お待たせして、すみません」の一言もあるでしょうが、ここはインドですから、「部屋を貸してやる」という態度です。

夕飯をホテルのレストランでとりました。部屋が混んでいるわりには、レストランは我々以外はだれもおらず、いるのは蚊だけ。出された蚊取り線香は日本製ではないのでしょう、効きません。インドのしぶとそうな蚊にも日本製の蚊取り線香はよく効きます。

隊長が明日のタクシーの交渉をするが、ホテルに仲介業者のような人がいて、値段がまちまちです。インドはこんな程度のこともなかなかまとまりません。

 

 

 

 

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