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8日目 19981124()

→バナーラス→サールナート→バナーラス→

 

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4:48 夜行列車でバナーラスの手前の駅に到着。気温が低く、ワイシャツ一枚では寒いくらいです。駅の簡易宿泊所(リタイヤリング・ルーム)はあいておらず、待合室でなんとか座るところを確保して、夜明けまで待ちました。ネズミがいます。6時頃ようやく明るくなりました。

7:00 タクシーでバナーラス駅に向かいました(Rs125)。今日の夜、この駅から再び夜行列車に乗るので、荷物を置くためにも駅の簡易宿泊所(リタイヤリング・ルーム)を借りました(Rs670)

部屋は広く、それなりの清潔さを保っているが、お湯の出具合がよくありません。天井にはヤモリがはっています(写真上)。部屋にこんな生き物がいるのをたいての日本人は嫌います。ただ、ヤモリは部屋の中の虫を食べてくれる役立つ生き物です。それによく見れば、けっこうかわいい。

駅内のレストランで朝食をとりました。一言、まずい。

 

ストゥーパの上に戦勝記念塔(Chaukhand Stup)

10:00 オートリクシャでお釈迦様が最初に説法したサールナートに向いました(Rs50)。サールナートの五百メートルほど手前のチャウカーディ・ストゥーパ(迎仏塔)で下りました。ここはお釈迦様を五人の比丘たちが出迎えた場所を記念して作られたスゥーパです(写真下)

 

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 写真に写っている八角形の建物がストゥーパではなく、その下のドンブリを伏せたようなレンガの山がストゥーパです。

 八角形の建物は、ムガル帝国のアクバル(1542-1605)が父親の戦勝を記念して作ったものです。仏教の遺跡の上に建物を建てるのですから、感覚が違うのか、それともこれを美しいと思って建てたのか、はっきりしません。また、ムガル帝国を真に大帝国たらしめたアクバルが建てた戦勝記念にしてはなんともさえない建物です。いずれにしろ、非暴力を唱えたお釈迦様の遺跡の上に、人殺しをした勝利の記念塔を建てるというのは、なかなか興味深い感性です。

 

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 悟りを開いたお釈迦様が自分を見捨てた五人の比丘を教化しようと、ブッダ・ガヤーから三百キロも離れたこのサールナートまで歩いてきました。五人の比丘は、苦行を捨てた者が来たから、無視しようと申し合わせていたが、いざお釈迦様に会ってしまうと、そのただならぬ姿にうたれて、挨拶をしたといいます。

 

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 たまたま五人の比丘が訪ねてきたお釈迦様とここでばったり会い、「おい、あいつだぜ。無視しようよ」とコソコソと耳打ちしたが、彼らに気が付いたお釈迦様が近づいて来ると、知らない相手ではないから、礼儀として出迎えたという話なのでしょう。

 チャウカーディ・ストゥーパは今でも発掘と修復が行われているようで、あちこちが掘り返されています(写真上下)

 

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 チャウカーンディ・ストゥーパの上から北を見ると、サールナートのダメーク・ストゥーパが木々の間から見えます(写真下)。では、そちらに行ってみましょう。

 

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仏舎利を河に捨てた大馬鹿者!

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 サールナートはきれいに公園化されており、入場料を取られることもあり、物乞や物売りはほとんどいません・・つまり、少しはいます。サールナートで一番目立つのが、先ほどのチャウカーンディ・ストゥーパの上から見えたダメーク・ストゥーパです(写真下)。形はイマイチですが、高さ43メートルという巨体です。

 

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 おもしろいのはダメーク・ストゥーパよりも、その西側にあるダルマラージカー・ストゥーパです。下記の写真がそれです・・・と言われても、「ダメーク・ストゥーパしか写っていないじゃないか」とおっしゃるでしょう。手前の広場のように写っており、我らが隊長が座っているのが、ダルマラージカー・ストゥーパの基盤の部分なのです。

 

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 ここにダルマラージカー・ストゥーパが1794年まであったのです。ベナレス藩主の宰相が市場を作るのにレンガを利用するために、壊してしまったのです。そこまでならただの馬鹿者ですが、この宰相はストゥーパの中から仏舎利(お釈迦様の遺骨)の入った容器を発見して、その仏舎利をガンジス河に捨てたという大馬鹿者なのです!!!ほら、おもしろいでしょう。

 もう笑っていいのか、泣いていいのかわからないくらいの暴挙です。世の中には自称仏舎利はたくさんあり、全部集めると象四頭分くらいあるそうです。しかし、学者も認める本物の仏舎利はたった一箇所から二度発掘されただけです。サールナートでは、ダメーク・ストゥーパからもチャウカーディ・ストゥーパからも仏舎利は発見されていません。ダルマラージカー・ストゥーパはその後の調査から、アショーカ王が建てたことがわかっていますから、本物の仏舎利だった可能性が高いのです。

そのくらい考古学的にも貴重な仏舎利を捨てた男の名前はジャガット・シンと言います。皆さんもこの地を訪れた時には、彼の愚行を讃えて「ジャガット・シンの大馬鹿者」と叫んでください。

 

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 昼下がりのサールナートは暑く、ダメーク・ストゥーパのそばで、赤い服のサドゥ(行者)が冷たい石が気持ちよいのか、昼寝をしています(写真下左)。三叉戟を持っているから、シヴァ派のサドゥかもしれません。仏教遺跡にヒンドゥー教の行者とはこれまたおもしろい組み合わせです。ただし、インドではサドゥと物乞の区別はつきません。

写真を撮っていたら、こちらに気が付き、見ています(写真下右)。托鉢に来られると迷惑なので、逃げることにしましょう。

 

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 ダメーク・ストゥーパの東側にあるムールガンダ・クティ寺院に行きました(写真下)。この寺院はスリランカの大菩提会によって1931年に建立されました。大菩提会の創設者であるダルマ・パーラが日本人画家の野生司香雪(のうすこうせつ)に依頼した、お釈迦様一代の絵が壁に描かれています(写真下右)

 

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 ムールガンダ・クティ寺院の東側に、お釈迦様を出迎えた五人の比丘の像が造られています(写真下)。二十年前には気が付きませんでしたから、最近造られたものなのでしょう。

 

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 お釈迦様を囲んで五人の比丘が合掌している姿です。彼らが教法を理解するまで時間がかかったようです。お釈迦様が言葉を用いて理屈で彼らを説得したという点を仏教徒はもっと重視するべきでしょう。

 

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最後にサールナートの入口にある考古学博物館に入りました。撮影禁止どころか、荷物も預けなければなりません。二十年前は写真撮影が許されていました。ここにはお釈迦様の初転法輪像やアショーカ王の石柱の上にあるライオン頭柱など、有名で見応えがある美術品がたくさんあります。

 

14:43 博物館を出て、近くのレストランで昼食(Rs334)。その後、周辺の店を散策し、買い物をしました。

小学生くらいの男の子が木でできたオモチャを売りに来ました。2つでRs52までまけさせたら、後でこれが店ではRs40しかしないことがわかりました・・・インド人には勝てません。

 

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道でジュース用に売られていたザクロを買いました(Rs26)。ジュースや切った果物は危ないので、そのままを買います。果物は日本人の感覚ではどれもあっさりしすぎますが、乾燥したインドには合います。

 

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16:00 オートリクシャでバナーラスの駅に戻りました(Rs60)。来る時はRs50だったのに、帰りはRs60です。

16:30 駅に到着。夕飯を取り、リタイアリング・ルームで出発まで休憩しました。

24:06 夜行の寝台列車で出発。

 

 

 

 

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