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10 11 12 7日目 2012年6月9日(土) 飛来寺→茨中天主教堂→徳欽→塔城 梅里雪山の二日目の朝の朝焼けはどうかと、朝起きて真っ先に窓辺に行きましたが、残念ながら、山そのものに雲がかかっていて、朝焼けどころではありません。昨日の朝よりも条件が悪いので、眼下の道路の見物人の数も少ない(写真下右)。 八時からホテルの食堂で朝食です(写真下)。万頭、焼きパン、おかゆ、ゆで卵などです。 今日の予定は変則的です。本来なら、ここから瀾滄江(メコン川)に沿って南下して、途中、何カ所か観光しながら、維西まで行く予定でした。ところが、その途中が交通止めになっているという情報が入っていました。とりあえず行ける所まで行ってみようということになりました。まず徳欽から瀾滄江を下り、茨中村にあるキリスト教の教会である茨中天主堂を観光します。 8:49にホテルを出発して、まず徳欽まで戻ります。ところが徳欽の手前で崖崩れがあったらしく、車が停まっています(8:57、写真下左)。幸い、5分も待つことなく動き出しました。車中から見ると、大した崖崩れではありません(写真下右)。 徳欽の朝市 徳欽の中心部にある市場の近くに到着(9:10)。烏里さんは交通情報を集めに行ったらしく、我々は車の中で待つことになりました。しかし、目の前に市場があり、犬クンもいるのに車の中で待つなんて私にできるはずがない。私以外は誰も降りません。 市場の中に入って行きたいが、呼び声が聞こえないと困るので、入り口のあたりで写真を撮りました。頭に赤いターバンを巻いたチベット人のオバチャンたちが売り買いに忙しい。品物は豊富です。残念ながら時間がなく、値段が調べられませんでした。 背負った赤ん坊にかけたタオルがミッキーマウスやキティちゃんなのがおもしろい(写真下)。 徳欽を出発して(9:23)、まず瀾滄江(メコン川)に出ます。徳欽の街が瀾滄江の支流の谷の一番奥にあるので、谷に沿って瀾滄江まで下ります。下の地図で見ると、飛来寺から徳欽になど行かないので、東に行けばよさそうに見えますが、もちろん、急斜面なので迂回するしかないのです。 徳欽から谷を下り始めると、周囲は道路も建物も工事中です。狭い谷にある徳欽の古い街を改造するのは難しいから、谷に沿って下に新しい街を作っているようです。数年先には街の中心はこちらに来るのでしょう。 あちらこちら工事はしているものの、大半の道は軽快で、山岳道路なのにかなりの速度で走っています。 瀾滄江を下る 瀾滄江に出て、川沿いに南下していきます。河が「Ω」のように蛇行している地点で撮影のために車を停めました(9:52)。 見ている位置が悪いのか、今ひとつ形もはっきりしませんので、皆さんには衛星写真をお目にかけましょう。下の衛星写真の右側に縦に白く道があります。その道から撮ったのが上の写真です。 湾曲した河よりも、周囲の集落が絵になる。 河に沿って集落が点在し、白壁で統一されているのがとても良い。 茨中村に到着 目的地の茨中村の対岸で車を停めて写真を撮りました(10:39)。 写真下左の右端に目的の茨中天主堂の塔が見えます。 下に見える橋(写真下左)を渡り、対岸に行くために、まず急斜面の崖の道を車は降りていきます。山岳地帯は目の前に橋や村があるのに、なかなかたどり着けない。 瀾滄江にかかる橋は吊り橋で揺れるので、ゆっくりと進みます(写真下)。 対岸の集落や畑のある急斜面を斜めに登っていきます。 茨中(ツチュン)天主堂に到着(1935m、10:57)。ところが、教会の入り口には鍵がかかっており、鍵を預かっている人を探すので、中に入るのには時間がかかりそうです。鍵を預かっている村の人に連絡を取ろうとしているようで、すぐに開きそうもないから、周囲を散策することにしましょう。 そばの広場では車に小ブタを乗せようとしています。たぶん、生まれて適当な大きさになったので、市場に売りにいくのでしょう。小ブタたちも事態を予測してか、必死の抵抗をします。このブタは黒ではなく、茶色です。中国は放し飼いの黒豚は良く見るが、こういう色の茶色は初めて見ました。 小さな村だということもあり、それほど人はいません。 暇なので小学校を勝手に訪問 教会と道路をはさんで向かい側は小学校のようです(写真下)。 門が開いていますので、ちょっと失礼して、中を見学しましょう。門を含めて、中庭に面して「口」の字に建物が建っています。入り口から両側が鉄筋でできた校舎です(写真下)。 ちょうど休み時間らしく、子供たちが興味津々で、日本からの集団を見ています。 気になったのが、写真下の民族衣装を着たオバチャンたちです。構内にいるのだから学校関係者なのでしょう。しかし、先生のようには見えない。 民族衣装のオバチャンたちが何をしているかは、門から突き当たりにある茶色の建物でわりました(写真下左)。 「学生餐庁 中国電信雲南公司 1万元」 と張り紙あります(写真下右)。生徒用の食堂を作るのにこの電話会社が1万元を寄付したということのようです。建物の前には炊事用の薪が積み上げてあります。つまりオバチャンたちは子供たちの給食を作る仕事をしているのでしょう。 これが学生食堂だということは、もしかして、庭で遊んでいるニワトリは食料? 我々がウロウロしている間に休み時間は終わり、授業が始まりました。邪魔しないように静かに立ち去りましょう。 中庭には、ここにもタチアオイがたくさん咲いています。 暇なので村の散策 小学校で暇つぶしをしても、教会の鍵を預かっている人はまだ見つからないようなので、村の中を歩き回ってみることにしましょう。 教会はたしかに村の中頃にはあるが、教会を中心に村が広がっているという雰囲気ではありません。 ここはチベット族のほかナシ族、リス族、漢族など約六百人が住み、ほとんどがキリスト教ですが、他にもチベット仏教や、東巴教を信仰しているそうです。 家屋の作りも村の雰囲気もごく普通です。キリスト教に関わるような物を探したのだが、ありません。むしろ写真下左を見てください。集落の家の間にあったマニ塚です。マニ塚とは、チベット仏教で経文を彫った石版や石を積み上げたものです。もちろん、キリスト教とは関係ありません。 道路に面した家畜小屋を見ると、アヒルと牛と豚が一緒に飼われている(写真下)。わかりやすいというか、おもしろい。しかもここの豚は先ほどの茶色とも違い、白と黒のブチです。牛クンは私のほうを疑わしそうにじっと見て、豚クンは爆睡中です。 道路脇に寝ていた犬君の写真を撮ったら、むっくり起き上がり、続いて、私に激しく吠えかかりました。つながれていない犬ですから、私は一目散に逃げました。日本以外の国では今でも狂犬病は健在です。 写真下の農家は道路から見下ろせて、農家の構造がわかりやすい。農家の人が家の前で麦の穂か何かを集めています(写真下左)。写真下右のように、農家の手前は二つに仕切られ、たぶん右側が牛などの家畜、左側は鶏です。牛などはこの時間だから放牧しているのかもしれません。 石臼があります(写真下左)。私の実家にもありました。形や大きさはほとんど同じです。もっとも私が小さい時ですら、すでに使っていませんでした。ここでは現役です。 農家はどこも収穫したばかりらしい麦が小屋に積み上げてあります。 花の咲いているシャボテンを見つけました。ここは高地とはいえ亜熱帯ですから、奔子欄などこの近辺には道端にシャボテンが生えているのは珍しくありません。しかし、花の咲いているのを撮るチャンスがありませんでした。 暇なので民宿訪問 「茨中游客之家」という民宿があります。上島さんが家主のオバサンに入れてもらい、中で写真を撮っていました。便乗して私もお邪魔することにしましょう。 建物の雰囲気からいって、まだ新しい。 客室のある二階に行ってみましょう。 二階は河に面した東側がベランダのように広くとってあり、部屋は西側にドミトリがあります。誰も客はいないようです。部屋は整然として、シーツなどは清潔です。 階段を上がるとき、奇妙な物をみつけました(写真下)。これはいったい何でしょうか。まるで日本の神道系の神棚のように見えます。キリスト教や仏教のように見えませんから、トンパ教(東巴教)の社かもしれません。 写真下は食堂とシャワールームで、いずれも清潔です。お客さんが来てくれるいいですね。 僧侶のような姿のイエス 教会に戻ってみると、鍵を開けてくれたらしく、中に入れました。写真下は教会の本堂の建物を他の建物から撮影したものです。 上図のように、教会に入るにはまず道路に面した山門を通ります(写真下)。 山門をはいり、「コ」の字の建物の入り口に行きます。鍵がないとこの入り口から入れません。入り口の建物はブーゲンビリアがとてもきれいに花を咲かせています。 「コ」の字の建物は外から見ると、白い石作りのように見えます(写真下)。 ところが中に入ると、意外にも内側は木造です。しかも、その木造はそれほど古い物には見えません。おそらくわりと最近に増改築したのでしょう。 門からの通路の脇や中庭はタチアオイなどの花が咲いていて、私の目は建物よりもこっちに行ってしまう。 中庭に入るとようやく教会の建物の全体が見えます(写真下)。門をいくつもくぐり抜けないと本堂に行けないという構造も、キリスト教というよりも、仏教や道教の寺院に近い。 この教会を建てたのはフランス人の宣教師たちでした。1867年に最初の教会が建てられた後、1905年に焼失し、その後、12年の歳月をかけて1921年に完成したのが今の教会です。写真下右のプレートのように、日本でいえば重要文化財に指定されています。 外と違い、中にはいるとまさにキリスト教の教会です。整備されているのでしょう、なかなか保存状態も良い。今はベンチが置かれています。しかし、ネットの写真を見ると、ベンチのなかった時代もあるようです。 祭壇の中央上にイエスらしい像が飾られています(写真下)。しかし、これ、ずいぶん珍しい。たいていイエスが十字架に架かっている図像か、十字架そのものを祭ることが多いのに、十字架はありません。真ん中に像を祭っているのは仏教や道教の寺院を連想させます。 さらにおもしろいのが、イエスの像の服装です。なんとなく仏教の僧侶の袈裟に似ています。しかも、良く見えないが、左手に持っているのはまるで托鉢用の鉢みたいです。もちろん、イエスが鉢を持っていたという説はありませんし、ましてや托鉢などしません。笑ってはいけないのだろうが、甚だしく中国的というか、仏教的なイエス様です。 写真上の祭壇をはさみ、左にマリア(写真下左)、右にヨセフ(写真下右)の像が飾られています。これもおもしろい。普通、キリスト教の教会でヨセフをマリアと対等に扱うということはほとんどありません。イエスの実の父親ではないからです。だが、ここではマリアと対等であるばかりか、ヨセフは幼子イエスを抱きかかえているのに、マリアは天を仰ぐだけです。 これは中国が父系を重視することからヨセフを外すわけにはいかず、イエスは一人しかいないから、ヨセフが抱きかかえさせたら、マリアは一人で祈るしかなくなったのでしょう。父親が子育てに参加することはとても大事なことです。カトリックは概してマリア信仰が強いのに、ここではその兆候がありません。 この教会でなんと言っても人目を引くのは天井の模様でしょう(写真下左)。道教の陰陽の模様まで入っていて、和洋折衷ならぬ中洋折衷です。 西洋の教会に比べてとても明るいと感じた理由の一つが赤い絨毯です。中国だから赤が多いのは当然としても、なかなか明るくきれいで良い。 入り口の隣にある階段から、塔に登ってみましょう。写真下左の塔です。 狭い階段を登ると、四方に縦長の窓のある部屋に出ます。格子窓です。鐘があるが、形がキリスト教と仏教の両方が混ざっています。余談ですが、日本では除夜の鐘など梵鐘が仏教の当たり前のようになっていますが、中国で取り入れられただけで、仏教には元々梵鐘などありません。 一番上は四方が開いています。今日は天気が良いから、ここでお茶でも飲めば最高だが、嵐の時などどうするのでしょう。 提灯はいかにも中国的で、周囲の風景と良く溶け込んでいます。提灯の色がはげているから、そろそろ取り替えてほしい。 ネットの観光解説によれば1921年にここは完成したことになっています。しかし、写真下の塔の天井などはごく最近作られたものであるのを見ればわかるように、近年に大幅な補修や改修をしているのでしょう。 フランスの宣教師たちが伝えたのはキリスト教の他に、ブドウとワインがあります。これが今でもこの地域でブドウ畑がたくさんある理由で、塔の周囲はブドウ畑です。 昨日、明永氷河に行く途中の村にもブドウ畑がありました。母国フランスでは病害で絶滅したブドウの品種もここには残っているそうです。河に沿ってかなり広い範囲にブドウが栽培されているところをみると、気候が合っているのでしょう。 地元では今でもワインを作っています。私はてっきり教会か村でワインを売っているものと期待していたのですが、見当たりません。さきほどのゲストハウスの看板には、「伝統的なフランスワインの醸造技術で作られた茨中ワイン」と英語で書かれていましたから、あそこで地酒を飲ませてくれるのでしょう。 せっかく観光の素材があるのだから、「茨中天主堂葡萄酒」とブランド化して、ラベルに教会の天井の絵でも貼れば、お土産としては売れます。国をあげて商売熱心な中国人がどうしてやらないのかとても不思議です。 神父さんもおらず、村人が鍵を預かっているような状態にしては教会はよく整備されています。また、写真下左の黒板におしらせなどかある所を見ると、単なる観光教会ではなく、村人もかなり利用しているのでしょう。 教会の鍵を開けてくれたオバサン(写真上右)にお礼を言って、教会を出ました。 やっぱり通行止! 教会の観光を終えて出発です(12:17)。 瀾滄江を渡り、元の道に戻り、維西に南下しようとすると、通行止だという。烏里さんから情報は伝えられていたとはいえ、やはりそうかと、がっかりです。 下の地図をごらんください。予定では徳欽からこの茨中村で教会を見て、今日は維西まで行く予定でした。ところが、通行止で我々は直接維西に行くことができず、徳欽に引き返し、そこから大きく迂回して、今日は塔城まで行きます。本当は維西まで行きたいが、距離的に無理です。塔城は旅行が始まった段階では宿泊する予定のなかった街です。 明日、さらに維西に向かい、明後日、維西から傈僳族の村を見るために、また一往復することになります。地図を見てもわかるように、大きく迂回しただけでなく、同じ道を百キロ近くも往復するので、一日以上が無駄になってしまいます。 ぼやいても始まりません。旅行にトラブルや予定外はつきものです。まずは今来た道を引き返し、徳欽に戻ります。 良いこともあります。私は左側の座席に座っているので、来る時は山側で、写真が撮れませんでした。今度は河側なので、被写体には困りません。では、ゆっくりと車窓からの風景をごらんください。 写真上あたりまでは山にも高い木が生い茂っています。ところが、写真下あたりからは、しだいに山から高い樹木が減っていきます。 上流に行くにつれて、少しずつ山は赤茶けた部分が増えていきます。 川縁には水力発電所もあれば、仏塔もあります(写真下)。 周囲の赤茶けた山に対して、人が住んでいる所だけが緑色です。人が住んでいるから緑が多いのか、それとも元々、水源があり、緑が多かったから人が住んだのか、どちらなのでしょう。 瀾滄江から徳欽の谷のほうに入り、三千メートルに近づくと緑が消えてあたりは荒涼として来ました。 瀾滄江の茨中村あたりは二千メートルで、そのあたりは緑が豊かだが、高度が上がるにつれて樹木減り、はげ山が出てきます。しかし、この後、徳欽から奔子欄方面に高度を上げていくと、再び山はシャクナゲなどの樹木で覆われます。このあたりは地図で見ると、それほど広い地域ではないのに、高度だけでは割りきれないような複雑な気候のようです。 瀾滄江近くは麦の刈り入れが終わっていたのに、高度の高いこのあたりではまだです(写真下)。 徳欽からステゴサウルス峠へ 徳欽に戻り、街の小さな食堂で昼食です(写真下)。しかし、私の分はいくら待っても出てこない。それもそのはずで、私よりも後に来た客に私の分を配膳してしまったからです。烏里さんが気がついて、催促してくれました。 料理は簡単に言えば、肉の入った餃子をスープの中に浮かせたものです。餃子の中は肉が入っているだけで野菜はほとんどありません。一口食べると、味が口に合わないだけでなく、肉の脂っこさに私の胃腸から拒絶通知が来たので、食べるのをやめました。こういう時のために私はビスケットを持ち歩きます。今回も、中国の店で買ったビスケットは甘みも少なく、あっさりしていて私の口に合います。車に乗ってから、ビスケットの昼食を済ませました。 14:21に徳欽を出発。3日前に来たのと同じ道を、まず奔子欄まで戻ります。まずは四千メートルの峠を越えます。写真下左の、私が命名した「ステゴサウルス山」の右側にこれから登ります。 三千五百メートルくらいまでの道の両側にはピンク色のシャクナゲが咲いています。飛来寺の山で見かけたのと同じシャクナゲです。 三千五百メートルをこすあたりから、ピンクのシャクナゲは消えて、白いシャクナゲに変わります(写真下)。 写真で見るといまいちですが、どこまでも広がるシャクナゲのお花畑はけっこう迫力があります。 これだけ晴れているのだから、シャクナゲの写真もきれいに撮れるはずですが、残念ながら、停まりません。と言うのも、今日の目的地の塔城まではけっこう距離があるからです。 白いシャクナゲの咲く斜面を登り切り、ステゴサウルス山を横目にステゴサウルス峠の山頂を通過(15:18 4130m、写真下)。 四千メートルの高地には先ほどの白いシャクナゲに代わり、今度は紫色のシャクナゲが地面を這うように咲いています。 天気が良いので、少し停まって花の写真を撮りたいが、なにせ先が長いので、窓からの景色だけです。 峠をだいぶん下りた所でトイレ休憩(16:08)。少しですが、花が咲いています。 写真上 Berberis jaamesiana (Guide to the Flowers of
Western China, p.80) 写真上 Rosa sericea (『雲南花紀行』p.157) 写真上 Fragaria nubicola (『ヒマラヤ植物大図鑑』p.455) 一号車が故障 急いでいる時にはさらに悪いことが起きるものです。休息から少し行った所で1号車が故障を起こして停まりました(写真下左,16:53)。タイヤに内側で何かがぶつかっているようです。日本なら修理工場を探すが、彼らは自分で直そうとします。2号車の運転手が道路脇の崖を降りていきます(写真下右)。彼は崖下に落ちていた針金で直そうとしていたのです。 花が咲いていたもっと上で故障してくれれば良かった、などとつい思ってしまうほど、直射日光がジリジリと当たる道路で日陰もなく、車の中も暑く、居場所がありません(写真下)。 周囲の景色は悪くはありません。眼下には集落と段々畑が広がっています。 東側には山々が連なっており(写真下左)、その中に三角定規を立てたような鋭い山頂の山が見えます(写真下右)。烏里さんによれば、あれは四川省の山だそうです。名前を聞きましたが、忘れました。 道路脇の崖に咲いているのはスイバの仲間です。枯れて箒みたいでも、逆光で見ると、きれいです。 写真上 Oxyria sinensis (Guide to the Flowers of
Western China, p.165) 道路脇の松の木に松ぽっくりがあります。写真で見ると、大きさがわかりませんが、日本のに比べて、一回りも大きい。 ようやく出発です(17:28)。しかし、奇妙なことに我々の車はスピードを出さず、ノロノロと走ります。てっきり車にトラブルが起きてゆっくり走っているのかと思いました。しかし、この後、少し先の奔子欄を通り過ぎると、普通の速度で走り始めましたから、結局、なぜあんなにゆっくり走っていたのか理由はわかりません。いずれにしろ、このために我々の車は大幅に遅れ、前の車はまったく見えなくなりました。 ゆっくり走ってもらうとありがたいのは車から写真が撮れることです。このあたりは橋をかけるなど新たに道路を作っているので工事中が多く、悪路が続きますから、車は猛烈に揺れます(写真下)。 3日前に泊まった奔子欄の街を通過しました(写真下)。ここから金沙江に沿って下ります。 空は晴れており、夕方の日差しが風景を浮きだたせ、とてもきれいです。 大音量、カラオケ、熱風 奔子欄を通過して少し行くと、香格里拉へ行く分かれ道があり、我々は金沙江沿いに右の道を行きます。3日前の地点に戻ったのです。金沙江沿いの道は舗装されていないので、芋洗いのような状態です。川は深くえぐれており、道路は峡谷の西側に沿って南下します。 対岸(東側)の崖に沿って新しい道路が作られつつあります(写真下)。何年か後には、我々の走っている道は旧道になり、半分くらいの時間で通過できるようになるのでしょう。 きれいな夕方の景色を見ながら、少々、今回の旅行についての愚痴を話します。 我が3号車の乗客の悩みの種は大音量の音楽でした。運転手は音楽を流すのが当たり前とばかりに初日から音楽をかけ、それも大音量です。私が助手席に座った時、音を下げると、彼は不満とばかりにまた音を上げました。たまりかねて、私は烏里さんに苦情を伝えてもらいました。 その上で、彼に音楽をつけさせ、私が適正な音量まで下げて(ゲージが25くらい)、OKのサインを出しました。彼も気を遣って、もっと下げるようになり、私はこれで一安心と思ったのです。だが、甘かった(笑)。 音量を守ったのはその日くらいで、私の座席が後ろになると、再び彼は音量を上げ始めました。最初に比べたら、本人は音を小さくしたつもりだろうが、私がOKを出したレベルよりもずっと上です(ゲージが30くらい)。 運転中に、運転手同士の連絡だけでなく、彼自身からもどこかに携帯をかけるのです。危険なので、三郷さんが音楽の音量の件と一緒に烏里さんに注意するように伝えました。私に続いて二度目です。 しかし、これはほとんど効果がなく、音量も下がらず、携帯も相変わらずでした。 音楽の音量だけが問題ではなく、実はこの車は彼の「カラオケボックス」だった!!大音量に負けないくらいの声で歌う。歌は素人にしてはうまいが、それをずっと聞かされるのはたまらない。チベットの曲は、ごらんのような天空の広がる山の上で歌うのですから、声の限りをつくして叫ぶような歌が多いのです。彼は、車の中に限らず、所かまわずに歌い出す、いや、叫び出す。 さらに問題は広がりました。この日など、彼は同じ曲を一時間以上にわたり、延々とくり返し聞き続けるのです。五分ほどの曲で、しかも、その中に同じフレーズが繰り返されていますから、それを一時間にわたって聞かされるのは、どんな良い曲でも、頭がおかしくなりそうです。一時間をすぎたところで、さすがに私はたまりかねて止めるように言おうとしたら、ちょうど車がエンストして、音楽も鳴り止みました。 座席はローテーションで、三日に一度は私が助手席に座りますから、音がうるさいと、遠慮せずに音量を下げました。 烏里さんを通じての苦情に、運転手もこちらに対して「ホコリが入るので、悪路では窓をしめてくれ」と要求してきました。それ自体は道理なのだが、実は、運転手の後ろの座席は窓が閉まらない。窓を開けることはできるが、スイッチが壊れていて、後ろの座席からは閉めることができない。 後で三郷さんが、スイッチの根元を抑えながら引き上げると窓が閉まることを大発見して、それ以降は閉められるようになりました。 この車は窓だけでなく、ドアの開閉にも一工夫必要で、私はそのコツをつかみましたが、三郷さんは最後まで開けられませんでした。つまり、自分で車に乗りたくてもドアが開かないから乗れない。 こちらが窓を開けるのは理由があって、暖房がかかっているからです。いくら高原でも六月ですから、たいてい暑く、暖房はいりません。 私は最初助手席に座って窓を閉めた時、何か異様な熱さを感じて、車の送風口に手をかざしてみると、熱風が出てくる。これでは暑いのは当たり前です。見ると、エアコンが暖房にセットされています。ただし、スイッチは「切」ですから、本来なら暖房は入らないはずです。しかし、34万キロも走り、あちらこちらにガタのきている車ですから、スイッチが切ってあっても、暖房が入るのでしょう。 私はエアコンを暖房から送風に、つまり空気がそのまま流れるように切り替えました。すると、運転手はすかさず暖房に戻し、それも元の位置よりもさらに最強の暖房にしました。車に何か事情があるのか、それとも彼の性格なのか、いずれにしろ、これ以上私は手出しはできません。やれることはたった一つで、窓を開けて、熱風から解放されることです。 大音量の音楽、運転手のカラオケ、熱風と、今回の旅行は車に乗るたびに気が狂いそうでした。烏里さんのツアーでは、これまで参加した二度とも、真面目に仕事をこなす運転手で、こんな人は初めてです。1号車と2号車に乗った人たちから苦情がありませんでしたから、3号車の運転手だけのようです。私は烏里さんに「今回の彼だけは二度とゴメンだ」と伝えました。 ちょっと休憩 1号車の故障以降二時間、まったく休憩がなかったので、三郷さんがドライバーに言って、トイレ休憩になりました(19:31)。ちょうど、崖から水が流れている場所で、手を洗うのにちょうど良い。ここは恒常的に水が流れているらしく、水溜まりに金魚草のような水草が生い茂っています。 少し走ってトイレ休憩(〜19:54)。と言っても、私はさきほどトイレ休憩をしたばかりなので用がない。車は2号車と3号車しかなく、またトイレ休憩にしては時間が長いので、てっきり1号車を待っているのかと思っていました。しかし、実際はすでに1号車は先に行き、塔城でホテルを探していたのです。 ここは集落ができただけあって、山から豊富な水が音を立てて流れ落ちてきます(写真上右)。その水流を使って、マニ車を回しています(写真上左、写真下右)。ここにもタチアオイが見事に咲いています。 写真下のノウゼンカツラの仲間は高度二千〜三千メートルくらいの道端に良く生えています。 写真上 Incarvillea arguta (『ヒマラヤ植物図鑑』p.145) 写真下左の看板からすると、ここは江東村というようです。我々は維西方向に向かいます。周囲はまだ薄明るいが、すでに夜の八時ですから、到着は順調に行っても九時をすぎます。 ここを出発したのが八時近くですから、間もなくあたりは暗くなってしまい、どんな所を走っているのか、皆目わかりません。休息をとった江東村は、奔子欄から塔城までの半分もないのですが、ここから先は道が舗装されているので、比較的速度を上げることができました。 塔城に到着 江東村から一時間半ほどで塔城の神川酒店に到着(写真下, 21:32)。あまり当たってほしくなかったが、一号車がエンコした時に私が予測した時間どおりでした。 夕食です。ホテルの調理師が帰ってしまったそうで、街中に出て食堂を探しました(21:56)。しかし、小さな街なので、店そのものが限られてきます(写真下)。 食堂の中はいくつかテーブルとベンチが置いてあり、まだ客もいます(写真上右)。室内にオートバイまで入れてあるのは盗まれないためでしょう(写真下)。つまり、そろそろ店じまいの時間のようです。部屋の奥にはタンカ(仏画)などがかけてある仏壇がありますから(写真下右)、チベット族かもしれません。 台所を見ると、すでに片付けが終わっており、我々のために新たに調理をするようですから、食材は限られます(写真下左)。食事は特にうまいもまずいもなく、お腹はすいていたが、夜遅いので、野菜など少量だけ食べました。 食後、薄暗い道を通り、ホテルに戻りました。神川酒店は中国のホテルとしては普通です。客室は三階まであるのにエレベーターがないとか、枕灯がつかないとか、細かい点はいろいろと問題がありましたが、田舎のホテルにしては合格でしょう。窓には網戸もあります。 「ああ、疲れた。やっと寝られる」とシャワーを浴びる準備をしていたら、停電です。外を見ると、このホテルだけが停電です。おそらく日本人の泊まり客が一斉に電気を使ったので容量を超えたのでしょう。担当者がいないらしく、つくまでに小一時間もかかりました。 トップページ 日程表 1 2 3 4 5 6 7
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