インド・ヒマラヤ西端に咲く青いケシ 3日目 2024年7月16日(火) チャンバ → バイラガル ←→ デヴィ・コティ 今日も晴れです。写真下は廊下の突き当りの窓から見た広場の眺めです。 今日は、チャンバから北上し、標高2300mのバイラガルに向かい、到着後、バイラガルの近くにあるデヴィ・コティという村を訪問します。下の地図のように、今回の旅の目的であるヒマラヤの奥に近づいています。 朝の散歩に、添乗員の林田さん(仮名)が周囲にある二つの寺院を案内してくれるという。 駆け落ち寺院 一つ目は、ホテルの目の前、南側にあるチャンパヴァティ寺院(Champavati Temple, Champawati
Temple)です(写真下左)。写真下右は寺院の境内からの写真で、背後に見える茶色の建物が私たちが泊まっているホテルです。 トウモロコシみたいな塔が特徴的です。写真下左は、この建物の後ろですので、正面から神様に御挨拶をしましょう。 こちらが正面の広場で、写真下の動物ここの神様の聖獣で、日本の狛犬と違い、神様と相対しています。これでもトラかライオンらしいから、ここに祭られている神様とはドゥルガーだとわかります。 写真下左が拝殿で、奥が先ほどのトウモロコシのある本殿で、そこに神様が祭られています。中は木造で飾りは少ない。しかし、古い柱などを見ると、精緻な彫刻が施してあります(写真下右)。この精緻な彫刻を、今回の旅行ではこの後もあちらこちらで見かけました。 拝殿の手前の床には四角い穴が空いていて(写真下左)、これは護摩(homa)を焚くためで、その上の天井は煙が通るように穴が空いています(写真下右)。 寺院の神様に朝のご挨拶をします。写真下左がそれで、ドゥルガーです。像はちょっと怖そうだが、下図右の絵のようにアスラ(阿修羅)を踏んづける美人の女神様です。昨日も一度、車の中からお見かけしました。今回の旅行ではほとんど毎日お目にかかるヒマラヤの女神様なので、「よろしくね」と私は手を振る(笑)。 上図 『インド神話入門』(長谷川明)より転載 西暦920年に造られたこの寺院の建立の由来話の共通点をまとめると、次のような内容です。 ヴァルマン王(Raja Sahil Varman)の娘のチャンパヴァティ(Champavati)は信仰深く、寺院とサドゥー(行者)の僧院を定期的に訪れていた。王は娘に疑いを持ち、短剣を隠し持ち、彼女の後を追ったが、僧院には彼女もサドゥーもいなかった。神の声が聞こえて、王の行いの罰として娘は連れ去られたので、災難を避けるためにもここに寺院を建てるように告げた。ヴァルマン王は娘を偲んでチャンパヴァティ寺院を建立し、街の名前もチャンバになった。 皆さんこの話を聞いて、どう思いますか?神のお告げなど作り話で、娘はサドゥーと駆け落ちしただけです(笑)。だから、娘もサドゥーも消えた。娘が僧院に通ったのは、信心というよりもサドゥーの若者と恋愛関係になったからでしょう。しかし、身分の違いから、結婚など認められるはずもない。王は若者を殺すつもりで短剣まで持ち出したから、気が付いた二人は申し合わせて逃げ出し、二度と戻らなかった。 一説では王の娘は一人だけだったらしいから、娘の失踪に父親としては落胆したことでしょう。わざわざこの寺院を建てたこと、そして街に娘の名前まで付けたことが、彼の失意を良く表わしています。 私が気になるのが、その後です。いくら千年前の地方の王国でも、王女として育てられた女性が、サドゥーと一緒に暮らせただろうか。サドゥーは今でもインドにいて、家を捨てて解脱を目指す行者たちで、彼らの生活の基盤は物乞いです。最初は恋愛の情熱から駆け落ちしても、その日から三度の食事と住居が必要になります。サドゥーにすぎない若者に王女を養うだけの能力があったとは思えないから、食事も家もなく、彼女は王女から物乞いに転落したようなもので、三日で音を上げたでしょう。 王女のその後の生活を千年後の他人の私が心配しても意味がないが、ドゥルガーに挨拶しようとして目があった時、妄想が浮かんできました(笑)。 この寺院は二人を隠すための場所だったのではないか。王が必死に二人を探しだしても、二人の間に子供ができていれば、引き裂くことは無理で、一方で王にも世間体がある。そこで世間には二人とも神隠しにあったことにして、二人を説得してこの寺に閉じ込めた。一説には、娘は信仰心が強かったので、女神になったという話もあるようだから、話の筋も合います。 つまり、この寺院は、王が娘夫婦のために造った隠れ家です。王宮が現在も残されている場所にあったのなら、寺院とは目と鼻の先です。王様は参拝するふりをして毎日でも娘や孫に会うことができた。周囲も気がつかないはずはないが、関係者が死んでしまうと、事実は忘れ去られ、寺院と、人々が好む宗教的な伝承だけが残り、千年後の観光客はそれを聞いている。 2つ目 ラクシュミー・ナラヤン寺院 斜面の細い道を上り、二つ目のラクシュミー・ナラヤン寺院に行きます(7:14)。 街はまだ目覚めたばかりで、犬たちはまだ寝ている(写真下右)。 坂を上った所にラクシュミー・ナラヤン寺院(Lakshmi Narayan temples)があり、朝は6:00から開いています。 境内は写真下のように、トウモロコシのような塔が6つ並んでいて、それぞれに神様が祭られています。衛星写真からは、周囲を建物に囲まれ、真ん中の広場に塔が並んでいるのがわかります。 トウモロコシの頭に着いている木製の屋根は雪対策だそうです。雪国の人間から見ると、トウモロコシの本体は石造りなのだから、先を尖らせて雪を落下させたほうが塔を守れるはずです。この屋根は無意味どころか、邪魔なくらいです。 これは神様の頭の上の天蓋でしょう。インドは陽射しが強いから、王族などが外を歩く時は後ろから日傘で日陰を作り、権威の象徴にもなった。仏教でも取り入れられて日本にも伝わり、寺院の本尊の上には大きな天蓋が吊り下げられ、瓔珞という飾りが付いています。 6つの塔は、神様が祭ってある一階部分は狭い空間なのに、塔は三階くらいの高さがあり、しかも階段が見当たりません。では、二階よりも上はただ石が積み上げているだけなのか。中を空洞にするほうが石材も少なくて済むし、軽くなるから建築物としても安定性が良くなるはずです。中はいったいどうなっているのでしょう? 写真下は1860年に撮られたチャンバです。ホテル前の広場から北東の方角を撮ったもので、奥の真ん中にラクシュミー・ナラヤン寺院の塔が、右上に王宮が見えます。広場の向こうにある木造の建物はマーケットだというから、今と同じ所にすでに市場があったのがわかります。ホテルのあるあたりの斜面は樹木で覆われています。 写真上 Wikpediaから転載 入口を入ってすぐ目の前の塔のある建物が写真下左で、敷地の一番北側に位置するので1番塔と名前を付けます。入口から見ると、奥の塔が隠れるほど手前の建物が立派で、これは他の塔では見られません。建物内部に入って、塔の入口の頭上にあるのが写真下右で、象頭のガネーシャのレリーフがあります。ヒンドゥー教では入口の上には良くガネーシャが祭られています。 目を大きくあけて、こちらを見ている神様はヴィシュヌらしい(写真下)。像よりも、着目は写真下右の管理人で、6つの塔で、管理人がいたのはここだけです。また、ヴィシュヌ像の祭り方も豪華で、お金と手をかけてあるのは、残りの5カ所の神様の祭り方と比較するとわかります。 写真下左の台座のレリーフはヴィシュヌの聖獣のガルーダです。また、足元の右に頭にオレンジの花を乗せているのはブッダで、ヒンドゥー教ではヴィシュヌの変化身とされています(写真下右)。ヒンドゥー教ではブッダは悪役なので、一番下の足元の脇にある。 ラクシュミー・ナラヤン寺院のラクシュミーとはヴィシュヌの奥さんで、ナラヤンとはヴィシュヌのことらしい。ラクシュミーは美と富と豊穣と幸運の女神ですから(下図)、私は期待に胸を膨らませて来たのに、旦那のヴィシュヌが目玉をひんむいて、にらみつけている。 私は旦那さんではなく、奥さんにお会いしたいので、早々に失礼して、次の2号塔に行ってみましょう。 上図 Wikipediaより転載 2番塔は寺院の名前どおりに、夫婦そろっています(写真下)。だが、これではラクシュミー・ナラヤンではなく、ナラヤン・ラクシュミーです。ラクシュミーは、男性神からはもちろんのこと、敵であるアスラ(阿修羅)からもモテモテの大人気の女神様でしたから、旦那としては気が気でなく、一時も離れたくないのはわかるが、私が用があるのはラクシュミーであってヴィシュヌではないから、次の塔に行きます。 3番塔にあるのが写真下左で、ちょっとわかりにくいが、これはシヴァのリンガ(男性器)です。後ろに貼ってあるポスター(写真下中)はシヴァと妻のパールヴァティ、息子のガネーシャとスカンダ(ムルガン)ですから、ここはシヴァを祭った塔です。 4番塔も、手前の床にはシヴァのリンガが、奥にはシヴァとパールヴァティの像が祭ってあります。写真下右の入口の木造の建物を見てください。1番塔のあの立派さとは比較にならないほどの簡素な玄関です。 5番塔は手前に置いてあるのはシヴァのリンガで、リンガに彫られた顔の額に3つ目が付いており、リンガの周囲をコブラがトグロを巻き上で傘を広げています(写真下左)。ところが、奥の像がよくわかりません(写真下右)。石でできたような像が5つあり、真ん中の赤い布がかけてあるのがシヴァなのかもしれないが、布が邪魔で見えない。 奇妙なのはその両側にいる神が乗っている聖獣です(写真下)。シヴァならば聖獣は牛です。ところが、写真下左は虎、右はライオンに見えます。もしそうなら上に乗っている神様はドゥルガーです。彼女はシヴァの妻だから、ドゥルガーがいてもおかしくないが、私の知る範囲で、シヴァとドゥルガーが一緒に描かれている図像を見たことがありません。3番塔や4番塔がそうであったように、二人で描かれる時の妻はパールヴァティで、ドゥルガーではありません。 もう一つ奇妙なのは全体です(写真下)。五つの像が集められているのではなく、最初から全体が一つの岩から削りだされたように岩に接着しています。右端は割れたらしくずれているが、模様からすると元は一体です。一つの岩から削りだしたにしては5つの像は大きさもバラバラ、各像の台座の高さもバラバラで、全体に統一性がなく、シヴァの隣にドゥルガーがいるだけでもおかしいのに、両側にドゥルガーがいるなど支離滅裂です。 たぶん、寄せ集めです。あちこちにあった古い像をかき集め、ついでに蓮華の大きな台座をこの部屋に合うような大きさに切り取って持って来て、適当にコンクリートで接着したのではないか。だから、台座も像も、高さ、大きさ、位置関係に統一性も脈絡もない。 いよいよ最後の6番塔です。またヴィシュヌがあの大きな目でこちらを見ているだけで、ラクシュミーはいません(写真下左)。ラクシュミー・ナラヤン寺院なんて嘘で、ここはナラヤン・シヴァ寺院です。 この寺院の解説を読むと、6つの塔はすべてヴィシュヌとシヴァを祭ってあるという。やはりナラヤン・シヴァ寺院で、ラクシュミーの寺院ではない。私は美と富と豊穣と幸運を期待して早起きして損をしたような気がしました(笑)。 どうして寺の名称と祭られた神との間にこれほど落差が出来てしまったのか。たぶん、この寺院が王族などの権力者によって長年維持されてきたからでしょう。この寺院を建立したのは、最初に訪問したチャンパヴァティ寺院と同じヴァルマン王(Raja Sahil Varman)で、ヴィシュヌの石像を造るための希少な大理石を入手しようとして8人の息子を失ったという。以後も、1800年代にいたるまで権力者たちがここに塔や祠を寄進しています。 彼らは武力を背景にした権力者ですから、腕力のある神を拝むにきまっていて、だから、6つの塔はすべてヴィシュヌとシヴァが祭られています。 だが、信仰を庶民に任せておくと、自然に女神が人気者になります。例えば、キリスト教でも、カトリックはマリア教かと思うほどマリアが出まくりで、イエスは影が薄い。仏教でも観音が人気者で、インドでは観音は男女の区別はないのに、中国の観音は完全に女性です。 私は権力も武力もない庶民なので、相手が男性神と女性神では、態度を露骨に変える(笑)。 インドのリンゴ 寺院の観光を終えて、ホテルの近くの果物屋に寄りました(写真下)。野菜や果物が豊富です。私は林田さんに頼んで、リンゴを買ってもらいました。高い方を買おうとすると、なんとアメリカ産だという。前にも私はインドでアメリカ産のリンゴを買って大失敗しました。林田さんはすぐに安いインド産に変えてもらいました。後でこのインドのリンゴを食べてみると、日本のリンゴとの味の比較を抜きにして言うなら、リンゴとしては合格です。 ホテルに戻り、朝食です(8:19)。写真下左は、お客さんの一人が皿に盛り付けたもので、右の私の皿のようにポツンとパンが一枚乗っているよりも、おいしそうに見えるだけでなく、それぞれの性格が現れていておもしろい(笑)。 3カ所目の寺院 荷物を車に積んでホテルを出発(9:13)。ホテルから道を少し引き返して、チャンバの南にある別な寺院を訪ねます。 丘の上にあるチャムンダ・マタ寺院(Chamunda Mata Temple)です。入口にここに祭られている女神のチャムンダの足跡を彫った岩があり、参拝者が頭をすりつけています(写真下)。 丘の上に本堂があり、その手前にある堂にはシヴァのリンガが祭られています(写真下)。 写真下左で、リンガの上にコブラが笠を広げているのはわかりにくいが、堂と相対する位置に聖獣の牛のナンディンがいますから(写真下右)、シヴァを祭っているとわかります。シヴァが本堂よりも一段下に祭られている点に着目で、ここでは彼は脇役です。 丘の上の本堂が写真下左で、中に壁に囲まれた女神堂があり、入口には女神のポスターが貼られています(写真下右)。写真下右の赤い衣を付けた人がここの管理人らしい。 左側が虎に乗ったドゥルガー(写真下左)、右側がカーリーで(写真下右)、いずれもシヴァの妻です。カーリーはアシュラたちの首をはねて勝利のダンスを激しく踊ったため、地面が揺れたので、地震を防ぐためにシヴァが敷物になっています。つまり、カーリーは夫を踏んづけて踊っている。 チャムンダという名前に関係するのは次のようなヒンドゥー教の神話です。 アスラ(阿修羅)のチャンダ(Chanda)とムンダ(Munda)が、シヴァの妻であるパールヴァティー(ドゥルガー、写真上左)の美しさを目撃して、誘拐しようとすると、彼女はカーリーに変身して(写真上右)、二人のアスラを斬り殺した。チャンダとムンダを殺したことから、彼女はチャムンダ(Chamunda)と呼ばれるようになった。 パールヴァティー(ドゥルガー)を誘拐するようにチャンダとムンダに命じたのがアスラ兄弟のションバとニションバで、彼女に結婚を申し込んでも断られたので、彼らは何万もの軍隊まで派遣して誘拐しようとしたのに、ことごとくカーリーに破滅させられています。 アスラも美人に弱いという点が、同じ男としていたく共感するが、いくら美女でも、血みどろのカーリーの姿を見たら百年の恋も冷めそうなのに、もっと燃えたというのだから、インドはすごい。アスラは悪魔とされているが、もちろん殺し合いで勝ったほうが神を自称し、殺した相手を悪魔と罵っているだけです。 どこの国の神話や伝承も血生臭い中、インドも例外ではなく、ひたすら戦いと殺し合いと破壊です。人類は今でもそれをしていて、七月後半、ガザでの虐殺数は間もなく4万人で、しかも1.6万人が子供です。カーリーはアスラを斬り殺して勝利のダンスを踊っているが、さすがに子供を殺したという話はありません。 こういう血生臭いインド世界で、完全な非暴力を唱えたのがお釈迦様です。非暴力というとガンジーが有名だが、お釈迦様はすでに2500年前にそれを説き、実践しました。 堂の前の床には板で蓋をした部分があり、これは護摩を焚く場所です(写真下左)。危険だから、普段は塞いであるのでしょう。その天井には、今日最初に見た寺院と同じように、煙突が付いています(写真下右)。 天井にはたくさん鐘がぶら下がっていて、強い風が吹けば、いっせいに鳴り続ける(写真下右)。今日は風が弱いのが幸いで、私は風鈴すらも苦手です。 建物を支えている土台に刻まれた顔は、ドゥルガーの聖獣のトラかライオンだろうが、どこか間抜けくさくて良い(写真下)。 私たちがいたわずかな間にも参拝者たちが次々と訪れています(写真下)。簡素な造りですが、これはラージャ・ウメド・シン(Raja Umed Singh)というチャンバ王国の王様が造った寺院です。午後、もう一カ所、彼が造った寺院を訪ねます。 ここは丘の上なので、本堂からの展望はなかなか良く、寺院の南側(写真下左)と、私たちが泊まったホテルのある北側(写真下右)の両方が見えて、チャンバがかなり大きな街だとわかります。 写真上右を拡大すると、私たちが泊まったホテルや散歩した市場が見えます(写真下)。 チャンバを出発 チャンバでの観光を終えて、今日の宿泊地のバイラガルを目指します。標高1000mから標高2300mを目指すのだから、渓谷の上流に登って行くのかと思ったら、川の下流に向かって走っています(写真下左)。これはチャンバがラビ(Ravi)川の上流にあるからで、下の地図の矢印のようにラビ川が流れていて、途中から堰き止められて、写真下右のような大きな川になり、西に流れていきます。 道はラビ川を離れて、山を越えると、左側に同じような広い川が現れます(写真下、地図上)。これはバイラ(Baira)川というラビ川の支流で、今度はバイラ川を左にしてその上流を目指します。 左手に川の本流を見ながら、少しずつ高度が上がっているのが、周囲の風景からもわかります。 道の周囲にはヒンドゥー教の寺院が時々見られます(写真下)。道路脇の写真下右はゴミではなく、神様を祭ったつもりでしょう。台は道路工事で残ったコンクリートで、聖獣のライオンの像がこちらを見ていますから、赤い布で包まれた像はドゥルガーです。 歩いている人は少ない。写真下右の馬に乗った人もこの時だけでした。馬は飾り付けがしてあるから、乗馬用ではなく、観光用か祭り用かもしれません。 トイレ休憩の道端で見たのは写真下のユッカで、私の山形の畑にも生えていて、白い花が見事です。北米原産ですから、ここでも外来種です。ここは山形よりも雪深いだろうに、丈夫な植物です。 写真上 Yucca
baccata 昨日と同様に松が枯れていて、約1時間にわたり見られましたから、かなり広い範囲に広がっています(写真下)。ただ今回の旅行で松枯れを見かけたのは昨日と今日のこのあたりだけでした。 私の山形市の自宅の裏山でも松枯れは珍しくありません。昔は伐採して広がるのを防いだのに、今はここと同じように放置されたままです。 周囲の山に家が珍しくありません(写真下)。それも集落ではなく、山の上のほうにポツンと一軒だけ建っていると、あそこまで車が通れる道があるのだろうか、電気はどうしているのだろうなどと考えてしまう。 幹線道路の途中の小さな街には店もあり、写真下は子供服の専門店らしい。人口密度が低いのに子供服の専門店が成り立つくらい需要があることになり、この地域の経済力を示しているのでしょう。 あと1時間 林田さんが車を停めて、写真下の谷の反対側の山の斜面を指し「バイラガルが見えてきたので、あと1時間ほどです」という(12:17)。私は、いくら悪路の山の斜面を登るにしても、目の前に集落が見えているのだから、この斜面を車で登るなら30分もあれば十分だろうと思いました。しかし、林田さんの予告どおり、ホテルに到着したのは13:12でほぼ一時間かかりました。 見えているのに到着まで一時間もかかる理由が下の地図です。向かいの山に行くために、谷の奥まで行き、さらに高度を上げるために、4回も折り返しながら、登っていくからです。 写真下左は谷をはさんで反対側の道で人が歩いています。まるで砂を固めたみたいで、すぐに崩れてもおかしくない。この道は通らないからいいけど、写真下右は私たちが通った道で、山頂からの大規模な崩落があったのがわかります。気が付かずに通過して、反対側から見て、ギョッとした。 写真下左の牛はインドでは当たり前のコブウシで、日本では見られません。それにしても午後1時に牛をどこに連れていくでしょう。放牧地に連れていくには遅すぎるし、家に帰るにしては早すぎる。 ようやくバイラガル(Bairagarh)のホテル(Chamunda Hotel)に到着(13:12、写真下)。 ホテルの食堂で、チャンバのホテルで作ってもらった昼食を取ります(写真下)。 デヴィ・コティの祭り 食事を終えて車でデヴィ・コティ(Devi Kothi)という村に向かいます(15:01)。距離はたった11kmなのに30分ほどかかると聞けば、道の状態がわかるでしょう。 南斜面に建物が並んだデヴィ・コティの集落が見えてきました(写真下)。 村に着くと、にぎやかな音楽が下から聞こえてきます。何かお祭りをしているのだ。急ぎ足で降りていくと、村の広場で音楽に合わせて、皆さんが輪になって躍っています(写真下)。音楽は生演奏で、踊りは比較的単純だが、けっこう激しいステップです。祭りは三日間行われ、今日が最後だというから、私たちは間に合った。 祭りはシヴァを祝うヌアラ(NUALA)といって、このヒマーチャル・プラディシュ州などで行われるという。ネットで調べると、写真下のような特徴的な花飾りを下げて、供養や踊りをするらしい。 写真上左 Youtube Mrinalini Marh氏の投稿から転載 写真上右 Youtube Himachal Trek Travelから転載 上のYoutubeではいずれも部屋の中の儀式で、屋外で踊るのは探せません。なによりも、この広場には写真上のような花飾りも祭壇も見当たりません。なんのためのお祭りなんだろう? 私も日本を代表して一緒に踊らなければならないと使命感にかられて下に降りていくと、風に煽られた猛烈な土埃に簡単に撃退されました(笑)。見ると、大半は若者で年寄りなど出る幕がない。踊り手に子供もいないことから、この踊りはシヴァのためではなく、男女の出会いの場でしょう。それなら花も祭壇もいらない。 踊っている人たちよりも見物客のほうが多いのも、踊るのは適齢期を迎えた未婚の若者だけだからでしょう。 標高2400mにある山の斜面の広場ですから、後ろには3000mをこえるヒマラヤの山々が広がっています。 斜面にある集落なので、家の屋根が一番の観覧席で、私たちが乗っているのも家の屋根です。壁は石造りなので大勢が乗っても平気です・・・と、この時は思ったのだが、後で作りかけの建物を見て、怖くなった(笑)。 子供たちにとっても祭りは楽しい(写真下)。祭りなので女の子はオシャレ着を着ているのでしょう。 日本では祭りは露店があるから子供にとって楽しいのに、残念ながら出店はありません。 写真下左の女の子はカメラのレンズにちょっと困った顔をしています。お嬢さん、青い服がとても素敵で、似合っていますよ。 お宅訪問 踊りが続いている中、私たちは写真下のお宅を訪問しました。ピンク色の服を着た人たちは他人の家の上に乗っています(写真下左)。入口から右に入り、通路を奥に進み、居間に通されました(写真下右)。 床は土をかたく固めたもので、靴を脱いで入ります(写真下左)。居間の広さは写真下左で、私たちも車座になって座りました。棚の上にはなつかしいブラウン管のテレビがあります(写真下右)。 写真下左は昔、料理に使っていた囲炉裏で、今は電気を使っています(写真下右)。 電気コンロで沸かしたお茶とビスケットを御馳走になりました。 私たちが座っている後ろに子牛がいます(写真下)。居間の中で子牛が飼われている。家に入った時、私にはなつかしい家畜の臭いがしたので、もしかしたらと思ったら、牛がいた。これは寒い地方では良くあることで、前に中央アジアのジョージアに行った時、メスティアという街で、昔の民家を移築した博物館があり、人間と家畜が同居した様子が再現されていました(写真下右)。 家畜がいると、子供は雑菌に慣れてしまうから、免疫が過剰に反応せず、アトピーやアレルギーにはなりません。 居間に集まっているのは、家族や親族です(写真下)。写真下左の、左の二人がこの家の家主夫婦です。私の曖昧な記憶で言うなら、写真下右の三人の女性が娘さんで、男性は青い服を着た娘さんの夫らしい。曖昧な記憶でもはっきりわかるのは、娘さんたちは美人だ(笑)。 詳しい人間関係を紹介されましたが、私が覚えられる顔と名前は3人くらいまでなので、覚えていません(笑)。 この家のおばあさんが亡くなったと聞いて、ガイドのハンスさんは泣き出しました(写真下)。彼はこの家を訪問するのは十年前からで、おばあさんの姿を映したスマートフォンの映像を家族に見せているうちに、本人が泣き出して、逆に家族に慰められています。 冬は雪も積もるヒマラヤの厳しい環境の中で94歳まで生きたのなら、大往生です。ハンスさんはまだ48歳だから他人の死に涙を流していられるが、私くらいの年になると、他人の死よりも自分の死が気になる(笑)。 お茶にお礼を言って、外で記念撮影をしました(写真下)。お客さんの一人がチェキというインスタントカメラを持っていたので大人気です。ただ、印画紙の値段が高いので、お客さんの負担が大変です。 村の家屋 村の石垣も家の土台も、平たい石を重ねています。水底に沈殿した土が層状に押し固められて石になっているから、人間には使いやすい石です。一方で、層状になっているからヒマラヤは崩れやすく、道路は土砂崩れを起こしやすい。 子供たちは毎日、この斜面の上り下りをしているから、身体は丈夫になるでしょう。 壁はレンガや石で積み上げ、その上に木造で屋根を取り付けているようです。これではあんな大勢の人が乗ったら大変です。ここは雪が降るのに、こんな平らな屋根で大丈夫なのだろうか、と雪国の私は心配になる。 写真下は増築中です。左は部屋を二つ増やし、右は二階を造っています。石やレンガでできているから、上に増築するのが楽なのでしょう。うらやましいのは、壁が石やレンガなら騒音の問題が少ないことです。日本の家屋はほんとうに騒音がひどい。 チャムンダ・デヴィ寺院 集落から斜面を少し下りたところに、チャムンダ・デヴィ(Chamunda Devi)寺院があり、改装中で、建物の上は赤いビニールシートで覆われています(写真下)。 今は本堂と東隣に小さな建物があるだけです。ところが、過去の旅行記などを見ると風景が違います。写真下は2018年にYati氏が撮影した風景で、建物が4つもあるのに、今は2つで、写真下の左2つの建物は今はありません。同じ場所の同じ建物なのに、すぐには気が付かないほど違います。 写真上 Youtube「Baira Wali Mata Temple」から転載 今ある本堂と思われる建物は写真上の右から二番目で、屋根の形がまったく違う。本堂の屋根の形を比較すると(写真下)、切妻の屋根を途中から横に切り取り、正面にだけあった屋根を四方に拡大したのがわかります。 写真上 現在 写真上 2018年Yati氏撮影 衝撃的なのが写真下の2021年の様子で、本堂の土台の左側が深く削り取られています。建物の補強もせずにこんなことをしたら、地震が来なくても非常に危険なのは、土木建築の素人でもわかります。実際、この写真を掲載した「TRIBUNE NEWS SERVICE」では、寺院の保護技術もない人たちが勝手に工事をしているとして批判していました。 写真上 「TRIBUNE NEWS SERVICE」より転載 こういった粗雑な工事への批判が効果があったのでしょう。たぶん専門家が入って、今は寺院の改築中で、私たちがいる間もそばで工事をしています(写真下左)。写真下左が、取り壊された西側の建物があった場所です。 本堂の周囲に新しい柱を建てて屋根を拡張するために、左側の建物を撤去したようです。写真下のように、古い堂の周囲を古い柱が取り囲んでいたのを、さらにその周囲に新しい柱を立てて取り囲み、屋根を四面に広げて増設した。 古い建物の外側に増築した様子が、写真下を見ると明瞭で、古い柱の位置が元々の本堂の大きさで、その外に拡張した。古い部分もそのまま残すのだから、良いやり方です。 古い建物の柱や天井付近のレリーフも精緻で、手間暇をかけたものだとわかります(写真上下)。 新しく付け加えた柱も同様に細かい彫刻が施され、さらに写真下右のように瓔珞のような飾りがぶら下がっています。人口がわずか200人の集落で、これだけの増築ができるとはすごい話で、私は林田さんとハンスさんにしつこく村の人口を確認しました。 ハンスさんは「巨木はこの近くにいくらでもあるから困らない」という。たしかに村の周囲にもヒマラヤスギの巨木が茂っています(写真下)。いや、材料の話ではなく、これだけ精緻なレリーフを施すにはかなりの費用がかかったはずで、それほど豊かにも見えない村で、どうやってお金を集めたのでしょう。 答えは、村人だけがお金を出したのではないからです。 写真上 Cedrus
deodara この寺院は単なる「村のお寺」ではなく、貴重な文化財で、1754年(または1751年)にこの寺院を建てたのは村人ではなく、ラージャ・ウメド・シン(Raja Umed Singh)というこの地方にいた王様です。今日の午前中、チャンバで訪れた3カ所目のチャムンダ・マタ寺院(Chamunda Mata Temple)を造った王様です。 このチュラ渓谷(Churah)は今は山奥だが、チャンバ王国にとっては北西側の国境として重要な地域だったので、この寺院を造り、武器で戦う女神を祭ったようです。 この寺院を最も有名にしているのが写真下の壁画で、堂の正面以外の3面に描かれています。寺院の前で林田さんが熱心に説明しているのに、私は無視して一人だけ寺に入り、写真を撮った理由がこの壁画です。過去の旅行記に、この寺院の見どころがこの壁画だとあったので、他の人が来ない内に撮影しました。 壁画はこの寺院の女神様がアスラを退治する様子や、インド神話の定番になっているクリシュナの物語が描かれています。いずれも血生臭い話ばかりなので、私は文化財や美術品としての興味です。壁画も寺院が建立された18世紀のものとされています。 200年以上も陽射しと風雨にさらしたにしては保存状態は良いが、そろそろ保護の手を加えないといけない時期に来ています。その意味では、屋根を広げることで、日光や風雨が入りにくくなり、多少の効果があるかもしれません。 寺院の話ばかりで、女神様への挨拶がすっかり遅れてしまいました。鍵がかけられているので、鉄格子から中をのぞきます。ドアの上にはここでも、象頭でシヴァの息子のガネーシャが祭られ、門番をしています(写真下右)。 祭られている女神像は刀を振り上げ、両側に三又槍(トリシューラ)が飾られ、また右側の下に置かれた像はライオンに乗っていますから、この女神はドゥルガーです(写真下)。 右の三叉槍の前の女神像にはネスカフェのインスタントコーヒーが瓶ごと供養されています(写真下左の矢印)。ドゥルガーもコーヒーを飲むんだ!?女神様は手がいっぱいありますから、刀を振り上げて、足でアスラ(阿修羅)を踏みつけながら、左手で受皿を持ち、右手でコーヒーを堪能する姿は余裕たっぷりで、アスラにもインスタントコーヒーをおごってあげたらどうだろう。いくら女神様の可愛らしい足でも(写真下右)、ずっと踏みつけられたままでは、アスラもしんどいでしょうから。 ドゥルガーはインドで密教に取り入れられて、中国や日本では准胝観音(じゅんていかんのん)として信仰されています(下図)。 ジュンテイの元の言葉はチュンダー(Cundā)、チュンディー(Cundī)です。私たちが8日目に泊まるチャンディーガルという街の名前は、チャンディー (Chandi)という女神が祭られているのが由来で、ドゥルガーのことです。名称を比べただけでも、准胝観音とはチャンディー、つまりドゥルガーだとわかります。 こんなふうに、日本では仏教の神仏だと思われているのに、ヒンドゥー教の神であることは良くあります。これはインドで仏教が衰退し、ヒンドゥー教に飲み込まれていった様子を示しています。インド密教はお釈迦様の仏教とはかけ離れた末期状態で、やがてインドでは自滅し、日本やチベットに密教として伝わり残っています。 上図 ウィキペディアから転載 上図 Baiduから転載 寺と相対する位置に、女神の聖獣のライオンが祭られていますから、これも女神がドゥルガーである証拠です(写真下)。ライオンの隣には三又槍(トリシューラ)がたくさん奉納してあり、これはドゥルガーの夫であるシヴァがドゥルガーに提供した武器です(写真下左)。美人の奥さんに武器なんか提供しないで、宝石でもプレゼントしろよな・・・シヴァから三つ目で睨まれると怖いので、前言撤回(笑)。 この寺院は二階や屋根裏があるように見えます(写真下)。また女神様が祭ってある部屋が狭すぎるので、てっきり、女神像の後ろには別な部屋があると思ったら、違っていました。 写真下はDr Sumit Kesarkar氏が村人と思われる人にインタビューしている動画です。女神像の後ろの金ピカの布が天井から吊り下げられているのがわかります。写真でははっきりしないが、天井の梁が見えます。つまり、堂の部屋は一つで、「玄関」の部分を布で囲んで仕切って、そこに女神を祭っている。だから、布の後ろに8畳くらいの部屋があるはずです。そこと二階か屋根裏はどうなっているのでしょう。 写真上 Youtube “Decoding the Cryptic Sounds of Ma
Chamunda”から転載 インド人は、柱に刻まれた細かい彫刻を見てもわかるように、何もない空間を好みません。だから、インド映画は画面全体が色彩と音で満ち溢れている。この点では、日本人が中国文化の影響で、雪舟の絵のように、何も描かれていない空間に価値を置くのとは逆に、過剰装飾で空間を埋め尽くすインド人が、堂の大半を占める空間をただの物置に使っているとは思えません。 畑の草花 村と寺院の周囲には畑があるので、花が見られます。 写真下の草花は建物の土壁に張り付いている。花はサクラソウかと思ったが、下の株からランナー(茎)が出て壁の上に根を下ろし、そこで葉をのばし、花を咲かせたように見えますから、イチゴじゃあるまいし、ランナーで増えるサクラソウなどありえない。サクラソウに近いトチナイソウの仲間です。 写真上 Androsace
sempervivoides 写真下で、山を背景に生い茂る植物は大麻、つまりマリファナです。日本では根こそぎ刈り取られて迫害されているが、ヒマラヤでは悠々と生えています。今日、来た道の途中にも、ホテルの前の道にも生えていました。ここから300kmほど離れたウッタラカンド(Uttarakhand)州の、花の谷のあるガンガリアでも、バスの窓から道端にいくらでも見られました。インドでは誰もこれを乾燥させて吸おうという人がいない。 写真下左のマメの仲間は、葉がシロツメクサと似ていて、ブルークローバーという商品名で市販されています。ヒマラヤが原産で、2008年に花の谷を訪れた時、初めて目にしました。 写真下右はすでに何度も出ているハッケリアです。周囲の草に押され気味なのか、あまり元気はない。 写真上 Parochetus
communis 写真上 Hackelia
uncinata 写真下左は見た目だけでは区別のつかないミントです。原産地は西アジア、中央アジア、北アフリカと広範囲に及び、しかも、それぞれの地域で亜種や変種があり、写真下もこのあたりに分布する亜種です。 写真下右はシモツケの仲間で、ヒマラヤやチベットでは良く見られます。 写真上 Mentha
longifolia subsp. hymalaiensis 写真上 Spiraea
canescens インドはツリフネソウの仲間が多く、良く見かけます。写真下左のツリフネソウは、“India Flora Online”によれば、東に隣接するウッタラカンド州にしか分布していないことになっています。隣ですから、分布の新発見ということしておきましょう(笑)。 写真下右は、日本でもどこにでもあるチガヤです。 写真上 Impatiens
tricornis 写真上 Imperata
cylindrica 人家や畑の近くですから、外来種や栽培種と思われる花もあります。写真下左は誰が見てもムラサキツメクサで、私の畑にも生えています。写真下右は野菜のタカサゴムラサキアカザ(ツリースピナッチ)で、畑から広がったか、あるいはここも畑の一部かもしれません。 写真上 Trifolium
pratense 写真上 Chenopodium
giganteum 写真下左はソバです。トウモロコシを植えた畑の中の縁ですから、植えられたソバの種がこぼれて、生えてきたのでしょう。 写真下右はマリーゴールドの仲間で、中南米が原産ですから外来種です。 写真上 Fagopyrum
esculentum 写真上 Tagetes
tenuifolia まだ祭りが続いている村を後にして、ホテルに戻ります(17:16)。 バイラガルの散歩 ホテルに戻り、七時から夕飯だというので、私はバイラガルの集落の散歩に行くことにしました。下の地図で、ホテルから西に村があり、ホテルからも斜面の集落が見えます(写真下)。村は斜面に沿って下の降りるように家が立ち並び、村の終わりにヒンドゥー教の祠があり、そこまで往復しました。 幹線道路から村への降り口が写真下左で、私はこれが道だと気が付かず、一度通りすぎた(笑)。狭い斜面を利用して建物を建てているので、集落の中も迷路状態で、公道なのか、個人の住宅の敷地なのか、わかりません。とにかく、下のほうを目指して下りて行きます。 集落の風景はあまりおもしろくなくても、子供たちはおもしろい(写真下)。彼女たちは片言の英語で私に話しかけ、私も片言の英語で返す。 集落が終わる頃に祠(Peerh mata mandir)があって、美と富と豊穣と幸運の女神のラクシュミー(Lakṣmī)と、シヴァの息子のガネーシャ(Gaṇeśa)が祭られています(写真下)。今日の朝、ラクシュミー・ナラヤン寺院では美と富と豊穣と幸運が探せなかったのに、夕方やっと会えた。 ベランダからの眺め ホテルに戻り、食堂で七時から夕飯です。インドに来て辛い物を食べないなどと言ったら、大半の料理が食べられないのは当たり前で、それでも辛くない物を探して食べる。 写真下が私の部屋で、広さは十分です。 お湯は電気で沸かすので、量は限られているが、出ました(写真下)。シャワーからは水しか出ませんから、お湯をバケツに汲んで使います。 全体としての衛生感はあるが、例えば、写真下右の石鹸入れなど汚れたままで、ここ数年は掃除した形跡が完璧にありません。このように設備や衛生に少し難点があるが、しかし、インドの田舎でお湯で身体が洗えて、水洗トイレと、広々とした部屋に不潔には見えないベッドがあるのですから、ぜいたくは言いません。このホテルは五段階評価の3.5で、合格です。 部屋の問題点は気が付かなかったことにして、部屋のベランダからのチュラ渓谷の眺望を楽しむ。 |