インド・ヒマラヤ西端に咲く青いケシ 6日目 2024年7月19日(金) キラール → ウダイプール → キーロン 朝6時に起床。窓を開けると、今日も晴れています。ここは東西に長い谷なので、朝6時では谷まで陽が射さず(写真下左)、7時すぎにようやく南側に陽が当たるようになりました(写真下右)。「オレがいる間だけ晴れて、後は例年のように雨を降らせてくれ」と勝手なことを言う(笑)。 今日は移動日で、キラールからキーロンに行き、途中のウダイプールで寺院の見学をします。 早目の出発 6:30から、いつものホテルのレストランで朝食です。写真下左は日本風のお粥です。日本で当たり前のお粥を、西遊旅行がこのホテルで作ってもらうのに、かなりの年月を要したらしい。インド人からみれば、香辛料も牛乳も何も入っていない米だけのスープなどありえないのでしょう。 日本人の性格を表わすのが幕の内弁当で、ご飯とおかずが細かく分かれているのを箸で食べる。インド人の性格を表わすのがカレーで、肉も野菜もグチャグチャに混ざっているカレーに、さらにご飯を指で混ぜて食べる。インド人と対立しそうな時には、幕の内弁当とカレーの違いだと思い出すことにしています(笑)。どっちもおいしい。 今日は移動距離が長いので、7:30と早目の出発です。キラールの街中ではすでに人々が活動しています。 少年が白い馬を引っ張るが、言うことは聞かない(写真下)。腕力だけでは馬も言う事はきかない。ましてや人間は、ミサイルをぶち込んで殺戮しても言いなりにはなりません。馬と違い、人間は言葉があるはずなのに、力で相手をねじ伏せることしか能のない愚かな指導者が民主的に選ばれているのが興味深い。 人々が居住する道端の植物は外来種が多いので見逃せません。写真下は、キラールでは道端のどこにでもあるカモミールで、写真下左は道路の土手に広がったカモミールの群落です。外来種と思ったら、“eFlora of India”には自生(native)だとあります。カモミール自体は欧州が原産とされていますから、インドでは外来種でしょう。 写真上 Matricaria
chamomilla 道路の脇にオオマツヨイグサという見慣れた花を見つけました。写真下は走っている車から撮ったのでわかりにくいが、日本で一般的なアレチマツヨイグサに比べて、花が大きく、きれいです。 写真上下 Oenothera
glazioviana 写真下は山形の私の畑に植えてあるオオマツヨイグサです。前は、アメリカ原産種を欧州で交雑させ、世界中に広がったという説で、“eFlora of India”でもこの説を採用しています。ところが、後に1875年にブラジルでこの植物が報告されていたことがわかり、今日ではブラジル原産ということになっています。 10分ほど進んだ所で車を停めて、2日間滞在したキラールの街を南側から見ます(写真下)。写真下左のアスファルト舗装もされていない狭い道は裏道ではなく、これがキラール近くの幹線道路です。 すぐそばで作業をしている夫婦がいたので、写真を撮らせてもらいました(写真下)・・・顔を隠しているので気が付かなかったが、女性はまだ若く、目元が似ているから、娘さんのようです。 同じように、道端で、石を集めているような人たちがいます(写真下)。写真下左の女性はハンマーで石を砕いて砂利を作っているように見えます。ここでは道路工事用の砂利が大量に必要なのは、この後、進むにつれてわかりました。 パンギー渓谷ともサヨナラして、チェナブ川の上流を目指して、チェナブ渓谷に沿って進みます。山道でも、うねうねとカーブが続くだけで、上り下りはそれほどありません。 こんな道路でも幹線道路ですから、路線バスが走っていて、カーブがあると突然現れたように見えるので、すれ違うたびに緊張します(写真下)。 道のほとんどは舗装されておらず、土埃がすごく、車は泥水を浴びたような状態で(写真下左)、歩いている人たちは口を押える(写真下右)。 道はともかく、渓谷の風景は良い。時々、谷間から6000m級と思われる山が見えます(写真下)。 渓谷には両側からたくさんの川が流れ込んでいて、それ自体がまた切り立った渓谷を作り出しています。写真下はいずれもチェナブ川に流れ込む支流の渓谷です。 崖崩れ 「ああ、ついに始まったか」と、私は写真下の光景を見てため息をつく(10:01)。崖崩れです。ヒマラヤでは崖崩れは恒例、日常茶飯事、当たり前で、むしろ今日まで一度も崖崩れに遭わなかったのが不思議なくらいでした。1号車の運転手は心配そうに外に出て様子を見ています(写真下右)。前に車列ができていないのは車を次々と通過させているからか、それとも運悪く、通行止めが始まったばかりで長時間待たされるか。 幸い、待たされることもなく、工事用の重機の隣を恐る恐る通過しました。写真下の工事関係者が持っている白い筒のようなものはダイナマイト??左側の男性が棒を使って、ダイナマイトを穴の中に押し込んでいるようで、足元に雷管用の赤い電線のようなものが見えます。ダイナマイトでこれから爆破するのだろうから、少し遅れていたら爆破を待つしかなくなり、長時間停められるところでした。 写真下のような急峻な崖の道ですから、いつ崩れてもおかしくない。煙っているのは埃です。過去の旅行記では、2016年の西遊旅行のツアーで、この日に崖崩れがあり、しばらく待たされたとありました。 この前後でも工事はいくつも見かけました。写真下右など二車線の拡幅工事で、しかもアスファルトを敷いている。しかし、こんな場所は珍しい。 土木作業には女性も多く、写真下に写っているのは全員女性です。インドも日本と同様に女性差別がまだ根強い。 日本の平均賃金は、男性を100とすると女性は75しかありません。今50歳の人が65歳で受給する平均年金は男性が14.1万円、女性が9.8万円です。賃金も年金も男女でこれほどの格差がある国を先進国とは言いません。どうしてこれを長年是正できないのか、そのほうが大問題です。 賃金や年金問題の差別は、選択的夫婦別姓を認めないとか、年収の壁を撤廃しないなど、家族や夫婦を単位とした古色蒼然とした社会制度が背景にあるからです。保守を声高に叫ぶ政治家たちが、ついこの間まで与党の最大派閥だったから、国連の女性差別撤廃委員会から夫婦同姓や天皇の男系男子という男女差別を撤廃するように勧告されても、また無視するつもりでしょう。 差別を温存したまま経済発展などありえないことは、この三十年で実証済みです。 グジャール キラールを出発して3時間目の休憩です(10:31)。写真下右の、陰になっている部分に滝があり、そこから川が流れています。 道の両側に時々同じような滝が見られます(写真下)。ヒマラヤはどこもスケールが大きいので、距離感がつかみにくいが、30~50mありそうです。日本なら観光名所になり、白糸の滝を白いソーメンを食べながら眺める。ここでは滝はそれほど珍しくありません。 空気の透明度も関係しているのか、遠いのに近くに感じてしまい、滝から流れる川の周囲に家畜がいることを他のお客さんに言われるまで気が付きませんでした(写真下)。ヒツジが順序良く川にかけられた橋を渡っています。 滝のある崖の上の右を見ると、写真下左の赤丸で囲った部分に、写真下右のような石で作った家屋が見えます。 たぶん、昨日もスーラル谷で見たグジャール(Gujar)の夏の居住地です。スーラル谷も石で作ってありました。チャイを御馳走になったサチ・パスのグジャールは、周囲に石がないからテントでした。テント内の地面の造りを見ると、毎年同じ場所にテントを張っているようでした。グジャールは放牧地がそれぞれに決まっていて、夏の間はそこに定住するのでしょう。 さらに一時間ほど走り、チェナブ川のそばでトイレ休憩です(11:46)。上流なのに、両側がさっきよりも険しくなくなりました。上流が険しく下流は広いという日本の常識が通用しないのは、ヒマラヤの規模が大きいからでしょう。 道端にはすでに何度か登場した薄緑色のアザミが生えています(写真下)。アザミはやはり色が付いているほうがきれいだ。 写真上 Cirsium
falconeri 写真下は香辛料などに使われるシソの仲間のオルガノです。欧州が原産で、インドでは外来種で標高1500~3600 mに生えています。 写真上 Origanum
vulgare ウダイプール到着 ウダイプール(Udaipur)に到着(12:13)。キラールが標高2600m、ここは2742mですから、走ったわりには標高はあまり変わりません。小さな街で、ムリクラ・デヴィ寺院の近くの通りが繁華街になっています。ウダイプールという名前は西インドのラジャスタン州の都市が有名で、この街はたぶん多くのインド人は知らない。 何を売っているかよりも、色彩の洪水のような光景はいかにもインドらしい(写真下)。 ウダイプールは仏教、ヒンドゥー教の寺院が近くにあるために巡礼の拠点にもなっているようです。それにしてはホテルはなく、ここから一番近いホテルは、車で4時間もかかる私たちが泊まったキラールです。 通りにいるたくさんの観光客は普通の観光客で、巡礼という雰囲気ではありません。 宗教的な雰囲気という点で見かけたのは、インドではすっかり珍しくなったサドゥー(sadhu、行者)らしい人です(写真下)。インドはお釈迦様の時代から、家を出て放浪し、托鉢だけで生活する習慣がありました。 日本の托鉢のように、鈴を鳴らしたり、尺八を演奏したり、数珠で信者の頭をなでるなどは、お釈迦様が説いた仏教の托鉢ではありえません。仏教の托鉢は黙って家の前に立ち、食べ物を入れてくれても、お礼も言わずに黙って去るのが原則です。 写真下の女性は丸い石を持ち上げようとしています。インドの叙事詩『マハーバーラタ』に出て来るビーマという怪力を持った英雄がこの石を持ち上げたというので、皆さん挑戦しています。彼女は結局持ち上げられず、男性に協力してもらい、二人で持ち上げていました(写真下右)。ガイドのハンスさんは昔これを持ち上げたことがあるそうです。 街中の青いケシのように青い食堂で昼食です(12:17、写真下)。 店は男性が切り盛りしていて、店の壁に祭ってあるのは豊穣の女神のラクシュミーです(写真下)。 店からは写真下右のような食事が出ましたが、私は無駄にしたくないので最初から断り、添乗員の林田さん(仮名)が準備してくれた梅干しの入ったオニギリと味噌汁です(写真下左)。日本にいる時、アルファ米やインスタント味噌汁はまず食べないが、旅行中はありがたい。 ムリクラ・デヴィ寺院 今日の観光の目玉がムリクラ・デヴィ寺院(Mrikula Devi Temple、Markula Mata Temple)です。前はこの街がMargulと呼ばれていたので、Mrikulaと付けられたという。 写真下のような特徴ある屋根を持つ寺院で、繁華街からこの屋根が見えるほどすぐそばの小さな寺院です。後で紹介しますが、すでに1905年にはこの建物がありました。建物が歪んでいるように見えるのはカメラのレンズのせいではなく、実際に歪んでいることが中に入るとわかります。 旅行会社からはアシュトグジャ寺院という名前で紹介されましたが、グーグルなどの地図でも現地の看板でも、この名前は確認できませんでした。写真下左の案内板にもMarkula Mata Templeとあります。 写真下右は寺院の前に立てられたインド考古学局の看板で、壊したら罰金取るぞという高圧的な警告だけで、この寺院については何一つ説明がなく、蹴とばしてやりたいくらいの役立たずです(笑)。 写真下の軒先にぶら下がっているのは干し柿かと一瞬思ったら(笑)、良く見ると花です。日本の寺院の瓔珞の原型です。 この寺院は、水牛の姿をしたマヒシャスラ(Mahisasura)という魔神を女神が成敗した時、その魔神の血が落ちた場所に建てられたとされています。この伝承を覚えてください。と言うのは、寺院にいくつも奇妙な点があったからです。 奇妙1.聖獣の向き 入口には黄色いライオンの聖獣が二匹います(写真下)。聖獣は普通一匹なのに、狛犬みたいに二匹もいるのも変だし、その向きも気になりました。ここの聖獣はライオンですから、寺院に祭られている神様はドゥルガーです。それなら、彼らはドゥルガーと向き合うように配置されるはずなのに、外を向いているのは奇妙です。 写真下左は1905年に撮られた写真で、見てもわかるように、聖獣はいません。つまり、この百年ほどの間に設置されたことになります。 中に入ってみましょう。この寺院が有名なのは、堂内の精緻なレリーフです。ところが、堂内は撮影禁止です。ネットを調べると、撮影禁止の内部の写真がたくさん出て来ます(笑)。スマートフォンがこれだけ普及した時代に、インド人が全員禁止に従うなんてありそうもない。そこで、ネットにある写真を加工して使わせてもらいました。その中でも、1905年に撮られたという白黒写真は貴重な記録です。 (写真上 ネットで公開されている写真を転用) レリーフのほとんどがヒンドゥー教の神話で、その中に写真下左はお釈迦様が悪魔の誘惑を避けて解脱した時の様子です。ヒンドゥー教の中ではお釈迦様はヴィシュヌの化身として、悪役で登場します。これを見ても、昔は仏教がヒンドゥー教から見て無視できないほどの競争相手だったのがわかります。その後、仏教がヒンドゥー教化して密教となり、前期のマントラ密教が日本の真言密教となり、後期のタントラ密教がチベット仏教となって残っています。どちらもお釈迦様の説いた教法から見ると原型を留めていない。 (写真上 ネットで公開されている写真を転用) 下図が寺院の中の配置図で、縮尺や長さは適当です。建物の中は二つに仕切られて、左側に女神を祭った女神堂があります。レリーフは本堂の内側や女神堂の外側に彫られています。 奇妙2.守護神の向きが逆 本堂に入ると、両側に忿怒形(ふんぬぎょう)の守護神が祭られています(写真下)。私は守護神を見た時、女神のほうを向いているのが気になりました。守護神は門番なのだから、外からの魔物を撃退するのが仕事で、本堂の入口の両側に、女神と同じ方向を向いているべきなのに、正反対です。 壁や柱のレリーフが精緻で繊細なのに、守護神はご覧のように、材質も違うし、かなり粗削りです。1905年の写真にはこの像はでてきませんから、この百年ほどの間に祭られたのではないか。推測のもう一つの根拠が祭り方で、まるでドアの両側にただ置いてあるだけのように見えることです。つまり、二体とも「後付け」ではないか。 (写真上 ネットで公開されている写真を転用) 奇妙3.「行きましょう」と言ってはいけない 伝承では、堂内で「行きましょう(CHALO)」と口に出すと、ここの門番の守護神が付いて来て、家庭に不幸が起きるから、決して言ってはいけないというのです。本堂の看板には、英語で次のような警告板まであります。 「Leave quietly. Don’t say
CHALO, Lets go, etc. (しずかに去れ。決してチャロ、行こうなどと言ってはいけない)」 CHALOとはヒンドゥー語で「行こう」という意味です。 だが、奇妙です。守護神が付いて来てくれるなら、不幸どころか、幸せになるはずです。それなのに、不幸になる??変な話。 (写真上 ネットで公開されている写真を転用) 本堂の中に女神を祭った女神堂があり、女神を拝むには低くて狭い入口に頭を下げて入らなければなりません(写真下)。感覚だけで言うなら、女神堂全体は6畳くらいの広さです。写真下左の1905年の白黒写真ではドアが木の板なのに、写真下右は私が見たのと同じで、格子戸になっています。 (写真上 ネットで公開されている写真を転用) もう一つ大きな違いが、写真下の女神堂の手前にある柱で、1905年にはありませんから、支えるために後で入れたのだろうが、後ろの女神堂と比較するとわかるように、明瞭に斜めになっています。ネットの記事を読むと、実際に地震などで寺院の壁の一つが大きく傾いていて、地元から州の考古学局に修理の要望が出ているにもかかわらず放置され、いつ倒れてもおかしくないという。指摘されなくても、素人が見ても危ないのがわかります。先ほど外から見た時も建物が歪んでいるのがわかりました。 建物が崩壊したら、これらのレリーフは大きな被害を受けます。また、地元の人たちは倒壊だけを恐れているが、木造でスプリンクラーも消火器もありませんから、火事で簡単に焼失します。貴重な文化財なのだから、写真だけでも撮るべきなのに、考古学局の役人や宗教関係者の意識も低い。 (写真上 ネットで公開されている写真を転用) 奇妙4.魔神の血を見て4人が失明した 奇妙なのが女神堂の構造です。女神堂は周囲を一周してみると、祭られた女神像は女神堂の奥にあるのではなく、真ん中頃にあり、彼女の後ろは壁になっているのがわかります。つまり、女神堂の奥に隠し部屋がある。 林田さんに聞くと、魔王の血のついた石がここに保管されていて、それが後ろに隠されているのではないかという。魔王の血を見ると、失明するという。ネット上の書き込みでは1905~1906年に4人が失明したという!白黒の写真が撮られたのが1905年であることと何か関係しているのかもしれません。 見ればただの赤い石だとばれて神秘性がなくなるから、誰も見ないように話を作ったのでしょう。宗教家だけでなく、多くの一般人もこういう霊的な脅迫話が大好きです。今回の旅行中、あるインド人は、日本人はシヴァの聖獣である牛を食べているから地震に見舞われる、つまり天罰だと言いました。それなら、欧米は地震だらけになるだろうと言い返したかったが、無知から来る狂信にはつける薬がないことは体験しているので、やめておきました。 魔神を殺す女神 写真下が女神堂に祭ってある女神像で、今回の旅行では毎日お目にかかっている美人のドゥルガーです。写真下左は1905年に撮られたもので、像は銀製だそうで、たぶん大きさは30cmくらい。今の姿が写真下右で、私が見たのもほぼこんな様子で、過剰な布に包まれて、姿どころか、顔もろくに見えない。ポーズを決めている美人の女神様を布で隠して、写真まで撮るななんて、何を勘違いしているのだろう(笑)。 1972年にこの女神像を盗んだ連中がいて、私たちが明日宿泊予定のマナリで逮捕されたそうです。刀を振り上げて魔王すら倒した女神を盗むなんて、怖い物知らずの泥棒です。 (写真上 ネットで公開されている写真を転用) この女神像は水牛の魔神のマヒシャスラ(Mahisasura)に、シヴァからもらった三叉戟(さんさげき)を突き立てている有名な場面で、インドでは良くみられる構図です。彼女は別名をマヒシャシュルマルディニ(Mahisasuramardini)と呼ばれ、これは「水牛の姿をした魔神マヒシャスラを殺した者」という意味で、学者は次のように解説しています。 「優しく美しい存在としての女性が、凄惨な殺戮によって世界を守るというパターンが女神崇拝の流行とともに強まってきたのである。」(『ヒンドゥーの神々』立川武蔵、石黒淳、菱田邦男、島岩、せりか書房、1980年、134~134ページ) これまで指摘したこの寺院の奇妙な点を含めて、私の素人推測を述べてみましょう。 ここは魔神の血が落ちた場所で、その血のついた石が残っていて、魔王は死んだのではなく、封じ込められているだけだ。血が付いたような赤い石が実際に女神の後ろに隠し部屋にある。ここは女神ドゥルガーを祭った寺ではなく、この魔神を封じ込めるための寺だ。だから、ドゥルガーは魔王が出てこないように前に立って遮り、守護神たちも普通とは逆を向き、女神の後ろに封じ込められた魔神を監視している。 魔神は封じ込められているだけで、人間にキーワードを言ってもらうと、ここから逃げ出すことができる。それは誰かが「行きましょう(Chalo)」と言ってくれることだ。インドではマントラ(真言)といって、言葉は音だけでなく、神秘力があると信じられている。 魔神は「行きましょう」と言ってくれた相手の後を付いていくことができる。つまり、守護神たちが後を付いていくのではなく、魔神が外に出たから、監視のために一緒に行くだけで、彼らが悪さをするのではなく、魔神が悪さをする。だから、堂内で「行きましょう」と言っていけない。 見たら失明するなどと脅かすことで、人々がうっかり魔神に働きかけないようにした。撮影禁止も、そのあたりから出た。 (写真上 ネットで公開されている写真を転用) いつの時代もどこの国も、勝てば官軍、負ければ賊軍で、勝ったほうが神で、負けたほうが魔神だの悪魔だのと悪く言われる。 伝説では、マヒシャスラは、彼を殺しに来たドゥルガーが美人なのを見て結婚を申し込んだという。私は、なんて単細胞でわかりやすい奴だと彼に好感を持ちました(笑)。ドゥルガーは「自分と戦って勝ったら結婚する」と言ったので、そこから10日近くも戦闘を繰り広げ、最後はマヒシャスラが負けた。 だが、これはフェアじゃない。だって、妻にしたいと思う相手なら、攻撃の手を緩めるでしょう。その弱みに付け込まれて、マヒシャスラは負けて、未だにこんな狭い所に押し込められている。ただドゥルガーも、惚れて全力を出せないマヒシャスラに同情したから、とどめを刺さずにここに閉じ込めた。 自分を殺そうとしているとも知らずに結婚を申し込むなんて、なんて間抜けな奴だと、同じ男として妙に共感し、また長年閉じ込められて気の毒だから、私は「チャロ(行こう)」と言ってあげようかと思いました。 しかし、「行こう」と声をかけて水牛の魔神に付いてこられても、私の飛行機の座席はエコノミー・クラスで水牛には狭すぎるし、私の畑は水牛を飼う広さはない。私にとって何よりも問題なのは、絵や像によれば、魔神マヒシャスラはヒゲ面のオッサンらしいことです。美人の女神様が付いて来てくれるなら100回でもチャロを言うけど、ヒゲ面のオッサンじゃなあ・・・。 私は「マヒシャスラ、すまん、オレも君と同じで美人に弱いのだ」と謝って、チャロ(行こう)とは声をかけませんでした。 チャロ 寺院の外に出ると、男性が花の付いた帽子をかぶっています(写真下左)。昨日、スーラル谷に行った時も見かけた民族衣装の一つで、近くの店でも売っています(写真下右)。 街中でもこの帽子をかぶった人たちを見かけます(写真下)。 昼食で入った食堂の入口に座っていた二人もこの帽子をかぶっていました(写真下)。 寺院の手前の空き地にはタチアオイがたくさん咲いています(写真下左)。商店街でもきれいなピンク色のタチアオイが植えてありました(写真下右)。 ウダイプールで今日の日程の半分ですから、そろそろ行こう、チャロ! 上流のほうが険しくない ウダイプールを出たあたりから、周囲の風景が少し変わりました。それまでは切り立った渓谷の間をぬうように走っていたのが、少し視界が広がりました。ヒマラヤは山脈の規模が大きいので、河川の両側は険しい場所と広い場所とが入り混ざっている。 上流に行くにつれてなだらかになり、やがて周囲には農地が広がるようになりました(写真下)。 写真下左は道路の上にある門で、ヒンドゥー教のシヴァと妻のパールヴァティが「ようこそ(Wellcome)」と歓迎していて、写真下右のトウモロコシ型の塔もヒンドゥー教の寺院です。 写真下の二つの建物は仏塔かヒンドゥー教の社か、はっきりしません。川原なので、増水した時、土台などが破壊され放置されたままなのか、荒れている。 写真下の白い布はチベット仏教のタルチョー(ルンタ)です。布に経典を印刷して、それを風にはためかせると、経典を読んだのと同じ功徳が得られるという信仰です。もちろん、お釈迦様はこんなことは説いていません。いずれにしろ、このあたりはヒンドゥー教とチベット仏教が混在する地域なのがわかります。 川の合流点 目的地のキーロンの手前の川の合流点で休憩です(写真下)。ここはキーロンから流れて来たバガ(Bhaga)川と、南側から流れてきたチャンドラ(Chandra)川が合流してチェナブ(Chenab)川となって、昨日まで泊まったキラールのほうに流れていきます。私たちは明日、チャンドラ川の上流に進みます。 幹線道路の周囲に花が少し咲いています。写真下のマメの仲間はパキスタンから西ヒマラヤの標高1500~3300mに生えています。 写真上 Astragalus
grahamianus 写真下もマメの仲間で、ほぼ世界中に広がっていて、ユーラシアの標高2700~4000mに、この地域ではアフガニスタンからネパールに分布します。要するに雑草です。 写真上 Medicago
falcata 写真下のアオイの仲間は欧州から西アジアまでの広い範囲に生えていて、インドでも標高4000mくらいまで分布します。私の畑に生えている外来種のハイアオイに良く似ています。 写真上 Malva
neglecta 写真下は、日本にも帰化しているヒヨスです。ヒマラヤでは2100-3300mに生えていて、インドでは薬草として広く栽培されているそうです。世界中に広がっていて、ナスの仲間で毒性があります。 写真上 Hyoscyamus
niger キーロン到着 バガ川に沿って15分ほど上っていくと、やがてキーロンの街が見えてきました(写真下)。 崖崩れなどの大きなトラブルもなく、予定どおりに旧道に面したキーロンのホテルに到着(15:48)。白い壁の小ぎれいなホテルで、中もそうでした(写真下)。 食堂の壁にはお釈迦様やダライ・ラマが飾られ、ここのホテルのオーナーは仏教徒なのでしょう。 写真下右はどちら様だろう。カタという白い布がかけられていますから、これも飾りではなく、礼拝の対象です。 写真上右は仏像かと思ったら、これも写真です。大きくして見ると写真下左のように、頭に仏を乗せるという特徴ある姿をしていますから、これは観音菩薩で、頭に乗っているのは阿弥陀如来でしょう。写真になって売られているくらいだから、有名なお寺の本尊だろうと検索してみると、私たちが今日立ち寄ったウダイプールの南のトリロキナート寺院(Trilokinath Temple)の仏像らしい(写真下右)。 この寺院は純粋な仏教寺院ではなく、ヒンドゥー教の寺院でもあり、両方の信者たちがお参りに来るという。一つの本尊をヒンドゥー教徒はシヴァだと信じ、仏教徒は聖観音(Arya Avlokiteshwara)と信じている。しかし、写真下を見る限り、これがシヴァには見えません。 写真上右 ネットのトリロキナート寺院の像 聖観音(しょうかんのん)は日本でも信仰され、典型的な図像が写真下で、写真上と比較しても、頭の上に阿弥陀如来がいて、また腕の配置や持ち物なども良く似ていますから、これはほぼ間違いなくシヴァではなく聖観音です。 ヒンドゥー教徒に「この姿は聖観音だ」と説明しても、彼らは「いや、シヴァが仏教徒に合わせて姿を変えただけだ」と言うでしょう。両方の宗教が対立もせずに拝んでいるのだから、追及する必要はありません。 上図 ネットの中国の聖観音 ホテルのオーナーが写真下左の人です。壁にはこのホテルと契約している様々な旅行会社のシールが貼ってある中、見覚えのある会社名がありました(写真下右)。RENのバサントさんには二度インドの花を案内してもらいました。 私たちはチャイとビスケットで一休みです(写真下)。 一本道に迷った 夕飯まで時間があるので、散歩に行きます(16:47)。ホテルの下に昔からの集落があるというので行ってみることにしました。集落はホテルの南西方向の目の前です(写真下)。 林田さんがホテルの従業員に集落への道をたずねてくれると、彼は「一本道で集落をグルッと回って旧道に出られる」というので、私は簡単らしいと楽観してしまい、彼がインド人であることを忘れていました(笑)。 こういう古い集落では、道は建物の間の隙間にすぎず、公道か、私道か、個人宅の敷地か、さっぱりわからない。私はできるだけ、公道らしい広い道を選んで歩いたつもりでした。 写真下左の石に張り付けてある丸い物は乾かした牛糞で、チベットでは燃料に使います。ここがチベット系の人たちがいるのがわかります。写真下右のホースやパイプはたぶん水道で、ここは昔からの集落ですから、建物ができた頃はまだ水道はなかった。 女性が二人座って何か編み物をしている前を通りすぎようとすると、そこから先は行けないという。たしかに、道は個人の住宅の庭、たぶんこの女性の自宅の庭に入ってしまい、行き止まりです。 どこで道を間違えたのかわからないまま、私は二人にお礼を言って、少し引き返し、下に降りていく道を進みました(写真下左)。 写真下の青い線が私が歩いた跡で、私が道がわからず、右往左往しながら歩いたのがわかります。これがインド人のいう「一本道で集落をグルッと回って旧道に出られる」道です(笑)。 私はいつの間にか集落から出て、南斜面の畑まで下りてしまいました。道にはツネフネソウが群落していて、きれいです(写真下)。ヒマラヤでは標高1800~4000mに分布します。 写真上下 Impatiens sulcata 写真下はゴボウです。温帯なら世界中に広がっていて、ヒマラヤでは標高2100~3700 mに生えていて高山植物のような扱いです。ここは畑ではなく集落の中の空き地ですから、自然に生えているのでしょう。 写真上 Arctium
lappa 道は畑に向かって下がる一方で(写真下左)、私はたまたま通りかかった二人にどうやって集落に戻れるかと尋ねました(写真下右)。 彼はそばの細い道を指して(写真下左)、これを登れば近道できると言う。もう一度、インド人の言葉を信じて上ると、集落に戻りました。私は自分がどこで道を間違えたのか確認しようと、少しホテルの方向に戻ってみることにしました(写真下右)。 すると、おやっ、子供たちの声が聞こえる!これはいい。 突然、見知らぬ老人がカメラを持って子供たちの間に乱入すれば、彼らの反応も写真下のようなものです。子供たちの顔が、インド系だけでなく、チベット系が混ざっている。 どこの国の子供たちも、こうなると大騒ぎです。彼らはカメラを触りたがり、時々、もろにレンズに指紋をつけてくれる。だから、フィルターの付いていないカメラで子供を撮ると後始末が大変です(笑)。 子供たちと意味もなく、ワイワイと騒ぐのは楽しい。 ところが、赤い服の子供が石につまずいて転んでしまい、大泣きです(写真下)。親がなだめるが、なかなか泣きやまない。子供たちも散り始めたので、私も、結局、道を確認できないまま、立ち去ることにしました。 集落の西側にお堂があり、シヴァが祭られています(写真下)。この集落の住人の多くがヒンドゥー教徒なのでしょう。これまではほぼドゥルガーなどの女神ばかりで、シヴァは脇役でした。それがここでは真ん中に祭られている。 しかし、このシヴァは変です。肌の色が白い。シヴァは下図のように皮膚の色は青黒い。白いシヴァはやっぱり変。 上図 『インド神話入門』(長谷川明、新潮社、1987年)から転載 小さな集落なので、間もなく私は通過してしまいました。集落と隣接する西側の斜面には森林管理事務所(Range forest office )など公的な機関があるらしく、集落とはだいぶん雰囲気が違います(写真下)。隣なのに道がつながっておらず、いったん幹線道路に出てから降りてくるようになっていて、車が通れる道もしっかり付いています。 ここで見たのが斜面に咲くタチアオイで、色の多様さを含めて、見事ですね(写真下)。 街の中でもタチアオイがちょうど花盛りです(写真下)。 ホテルの従業員が言ったように、先ほど車で来た旧道に出ました(写真下)。旧道なので車がすれ違うのが容易でない狭さで、両側に店が並んでいます。斜面の上に、この道路と並行して新道が作られています。 キーロンは標高3100mですから、昨日までのキラールの2600mから少し標高をあげています。3000mは高山病になるかどうかの目安なので、高山病に弱い私は用心するところですが、すでに何日もこういう高度にいるので息苦しさはありません。 東の商店街 ホテルの前に戻ったのが6時前で(写真下左)、このままホテルに入っても意味がない。 私はホテルを通りすぎて、東側の商店街に行きました(写真下)。写真下左で、奥に見える白い三階建てのように見える建物が、私たちが宿泊しているホテルです。 ここも観光客用ではなく、地元の人たちが買い物をする商店街です(写真下)。 商店街を過ぎると、仏教圏らしく、大きな仏塔(ストゥーパ)があります(写真下左)。その近くにある赤い建物には、赤い神様の像が祭られています(写真下右)。顔が真っ赤と言えば、彼だ。 ヒンドゥー教のハヌマーンという猿の神様で、叙事詩『ラーマーヤナ』で活躍します。西遊記の孫悟空のモデルになったとも言われますが、ハヌマーンは忠誠心の高い猿で、一方、孫悟空(斉天大聖)は天界を荒らしまくり、三蔵法師に逆らうこともある天衣無縫の猿ですから、性格はかなり違います。サルが身近なインドではハヌマーンは人気者で、今回の旅行では単独で祭られているのはたぶん二カ所目です。 右上図 『インド神話入門』(長谷川明、新潮社、1987年)から転載 街の東端にある谷まで来ました(写真下)。この川のそばなら、少しは花があるのではないかと朝の散歩の候補に挙げていました。しかし、見た感じでは、もう一度来る価値はなさそうです。 ホテルの眺め ホテルに戻り、ホテルのレストランで7時から夕食です。私は風邪が抜けておらず、咳やくしゃみがでるので、一番端の席に座りました。 写真下が私の部屋で、広々として、窓が二方向にあり、明るく、気持ちが良い。時々、短時間、停電するのはホテルの問題ではなく、電力会社の問題です。 料金も環境も違うから、これまでのホテルと比べるのは無意味なのだが、設備は良く、掃除も行き届いています。 気になったのが枕カバーで、写真下のように、頭を乗せるには勇気がいるほど黄ばんでいる。私の頭の跡ではありません(笑)。 ベランダから見える雪山の一つに「キーロンのレディ(Lady of Keylong)」と呼ばれる女性の姿が浮かび上がるという(写真下左)。ネットの解説では荷物を背負った姿だというが、私には髪の長い女性が座って、本を読んでいるように見えます・・・いや、スマホに向かって、何か話している。 写真下がベランダからの眺めで、写真下左は、さきほど散歩で出かけた東側の商店街です。枕カバーの件はこの眺めの良さで帳消しにすることにして、ホテルへの評価は五段階の4.0で満足とします。 |